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April 1
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「吉野くん、ちょっと待って」
初めてクラスメートの米倉銀に話しかけられた言葉はやっぱり低い温度の空気をまとっていた。
二年生に進級して、新しいクラスにも馴染み始めた頃。容易いことに、去年一緒につるんでいた連中と教室割りが重なった俺は、新しい春の兆しやくすぐられるような冒険心に触れるような変化を持ち合わせてはいなかった。ましてやそれを感じ取ることも。
一年生の時と何も変わらない。
仲のいい連中とまた一緒に遊んでいられる。
当たり前のことすぎて疑いもしなかった。
春の兆しは俺の知らないところで芽吹き出していた。
帰りのホームルームが終わってにぎやかになる教室の中に、もちろん俺もいた。
俺は隣の席の友達としゃべりながら、明日からのゴールデンウィークのことで頭が一杯だった。
話しかけられたのはそんな時。
声は俺の真後ろからで、反応して振り向くと後ろの座席に座っていたクラスメートと目があった。
振り向き様、後ろの席の顔を初めて見たんじゃないかとふと気づく。考えてみればプリントを回す時くらいしかその存在に触れたことがなかったし、こうしてきちんとコンタクトを取ったのが俺の記憶違いでもなければ、つまりはこれが初めてということになる。
きちんとしていたのは、俺じゃなくて、あくまで相手の方だけだったけれど。
予期しないタイミングで話しかけられた俺は面食らった。一括して真面目そうにこちらを見つめるクラスメートとの微妙な温度差に、俺の言葉が自然と歯切れ悪くなる。
「……えっと……何、か?」
もしかしたら何か怒っているんじゃないだろうかと俺が勘ぐってしまうほどに、彼は常温かそれより少し低い空気をまとっていた。
静かに一冊のノートを差し出される。
「…………え?」
「帰る前に日誌を書いていって」
「……日誌?」
「今日当番だから。ひとこと書いて」
「…………」
日誌。当番。
そういえば、今朝担任の教師に名前を呼ばれたような気がするけどスルーしていて何のことだったか忘れていた。
…………今日?
彼は俺がノートを受け取るのを待っていた。座ったままの視線は俺が立っている分やや上目がちで、あまりに真っ直ぐ向けられているからこれは嘘じゃないのだと疑念を否定させてくる。
疑い半分ではあったけれど、俺は手を出してようやっと日誌を受け取った。
「よろしく」
その言葉に俺はますます変な顔になった。よろしくって、これ……どうすればいいの? 書けってこと?
立ち尽くす俺を放置して、教壇の方へと行ってしまう今日の当番担当。人もまばらになった教室の中で、実に淡々と、任務をこなしていた。ロボットか何かのように見えた。
終始俺の隣に立っていた友達が、ぬるりと居心地悪そうにして話を切り出してきた。
「俺、帰っていい?」
「……ごめん、忘れてた」
「まじか。お前時々抜けてるよな、日直当番とか」
「うっせーな……忘れてたけど」
けれども仕事を頼まれても責任なんてものは持ち得ていなかったし、今さら日直らしいことをするのはなんだか申し訳ないような。
手書きの表紙の文字をしげしげと見つめた。
このまま不精していても仕方のないことで、俺はとりあえず自分の席に座り直した。
書かねばならないことは明白だった。というのも、先日仕事を怠けた結果二日続けて日直当番をした奴がいたことを運良く思い出したからで、日誌程度のものであればすぐ終わるだろうと考えの甘い俺は、やっぱり甘い思考回路でそう考えた。
日誌を開いて今日のページを繰る。ああ、こういうの、書いてたな。日誌当番は例外なく全学年で行われている業務だから、去年の記憶と前の日誌のページを確認しながらではあるが書けそうだ。毎回日直を忘れていたこともついでに思い出した。
あった、と俺は小さくつぶやいた(気がした)。
日付と今日の時間割のフォーマット。
ホームルームでの注意事項やその他もろもろの欄はほとんど書き込み済みになっていて、俺のお仕事は下部の空欄を埋めることだと容易に察しがついた。
帰り支度の整っていた鞄から筆箱を引っ張り出し、その空欄にペンを走らせる。
……つもりが、書くことが思いつかなかった。
あー、そういえばこの最後のコメント欄、いつも何を書いたらいいかって、悩むんだった。
ページをさかのぼって前日、前々日のコメント欄をカンニングしてみる。ろくなことが書かれてないことだけは分かる。苦しくなって紙面から目をそらした。考えを改めよう。
顔を上げて教室をひと眺めする。俺ともう一人の日直当番しか残っていなかった。隣にいた友達は今度こそ帰ったらしい。
もう一人の日直当番は戸締りの確認をしていて、ゆっくりと傾き始めた陽に照らされてた教室の中で、特に理由があるわけではなかったけど、いわゆる彼は優等生と呼ばれるタイプの人間なのだろうなと自分の中で漫然と位置付けた。
「書けた?」
ぼーっとしていると彼はこちらに視線を向けてきた。戸締りの確認が終わったようだった。
「あ……ちょっとまって」
我にかえった俺はシャーペンを握り直し、再び日誌に集中する。明日からの連休へのイマージュはすでにすっぽりと頭の中から抜けてしまっていた。心の端に転がっていた小さなものが妙にむずむずと身動ぎはじめ、これは一体なんだろうと感じながら、俺は日誌にコメントを残した。
書き終わった時、何故だかドキドキしていた。
「ありがとう。俺職員室まで出してくるよ」
彼の言葉がくすぐったいと思った。ずっと低温気味の彼は、変に興奮しているらしい俺のことなんて気にも止めないようで、仕事を済ませようとする姿勢はやはり淡々としていた。
「いや、その、良ければ俺が出してくるよ。今日、ろくに日直の仕事してないし」
「そう。じゃあお願い」
彼はさらりと仕事を託すと帰り支度に取りかかり、それを見て俺ももう一度帰り支度を整えた。
挨拶もそこそこに、教室を出ていく。
日誌を見てようやく覚えた、俺の後ろの席に座るもう一人の日直当番。
「待って」
先を行く彼の背中を追って廊下に出る。教室の手前で日誌の表紙を見せつつ、ああこの衝動はなんだろうねと、知らない自分が心の中でつぶやいた。
「えっと……今日はありがとう」
颯爽と振り返った彼の表情は終始あっさりしたもので、けれど俺の今のいっぱいいっぱいの言葉に、
「どうしたしまして」
すっと笑って、そつのない動きで奥の階段へと消えていった。
春の兆しなんて、一体誰が教えてくれたんだろうか。
優しく陽が傾いていく放課後は、春にふさわしい温度を届けてくれていた。
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