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鴉と、紅蝶
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バサバサと、案外近くの草むらで羽音がした。二人の男は驚き、足長の草の上から飛び立つ、黒いツヤ羽を見送る。
「チッ、鴉だ。」
「何だよ…鴉か。」
鴉という言葉にはっとした常は、黒鉄を思い浮かべ、その近くにある存在を心の内で呼んだ。
紅丸!
太った男は気を取り直し、嫌がる相手から下着を苦労して脱がせようとずらす。その時に目に付いた紅色の蝶があまりにも見事だったので、思わず撫でたくなった。今、まさに花にとまろうとしてるかの様に翅裏の描かれた図柄、その所為か白い腿から花の香が匂う気さえする。
「ほんと、見事なもんだ。」
肉厚の指が蝶を撫でたその時、夢か幻か、肌の上に紅色の蝶が浮ぶ。初めから生きていて、ただここにとまって翅を休めていただけなのだと知らしめる。指の下で動くその翅の薄い感触に驚き、わっと声にならずに左手を退かす。
「っあ、熱っ!」
男は飛び跳ねて、指先に付いた火のように熱い鱗粉を払おうとした。ところがどうした事か、鱗粉は全く払う事が出来ない。見る見る間に指先の皮は鱗粉の付着した下からぷつぷつと水泡になり、あっという間にただれて皮が破れる。
「おい、如何した!」
「あ、ああ、手、手が痛い、」
激痛に耐えられず、左手を押さえて転げ回る男。猛毒にでも触れたのか、瞬く間に水泡は手の平にも広がり、ただれた皮が落ちて肉が覗く。左手はもはや使い物にはならない。ぼたぼたと血と膿が草の上に滴った。
「お前、何した!」
その鋭い声音に、訳が分からず首を振る常の口から手を離し、若い男は帯に挟んでいた合口を鞘ごと抜いた。口の端を紫に腫らした、目蓋を閉じたままの常を警戒しながら草の上へ仰向けに荒く押し倒し、その腹を草履を履いた片足で踏みつけた。うっと息を詰めるのを足裏で感じながら、検分するように見る。
手首は結ばれたままで、目は傷付き、左足首に傷を負っているこの両性者の仕業とは思えない。ふと、その目の端で太腿の蝶が翅を震わせた。
「っは、何だよこの蝶々…刺青じゃねえのか、動いてる。」
若い男の言葉に、常の目蓋が少し動くが直ぐにかたく閉じる。状況を知りたいが、目の色を晒すわけにはいかない。しかし、思う事はある。
「お前、目が見えるんだろ。何で目を閉じてんだ!この蝶々は何なんだ!」
今や、転げ回っていた男の左腕は腐り、あまりの激痛に口から泡を吹いて気を失っている。
若い男は目つきを益々鋭くして、その太った男をちらりと見る。素手で触るのは危険だと思い、屈み込んで合口の柄で常の肩を小突く。
「早く答えろよ、…斬るぞ、」
その声音には恐怖が滲む。本来なら切って死なせてはまずいが、もう若い男の中ではこの訳の分からぬ事態から逃れたい気持ちが勝っている。
「その蝶は、ただの刺青じゃない。そろそろ飛ぶ、触らない方がいい。」
そう答えると、本当に紅色の蝶は空に浮かんだ。若い男がぽかんと見上げる。
常は両手首を胸元に置いたまま、じっと間合いを測った。肩を押すのは、きっと何かの刃物の柄だと確信している。伊達に傭兵だった訳ではない。人の命を奪う事こそしなかったが、違法カジノの用心棒や、領地争いで戦に出た経験もある。若い男は、常の経歴など知らず隙だらけだった。
「それ借して、」
息遣いの空気の揺らぎで男の顔の位置を定め、両手をぐっと合わせて下から顎を突いた。男の体がぐらつき、離れた距離を利用して薄目で確認した合口の柄を掴んで引き抜く。すらりと光る刃を中途半端に露わにして鞘に留め、手首を縛る紐の結び目をそこに滑らせた。案外手入れを良くしているのか、それとも新品なのか、あっさりと紐は切れて地に落ちた。
「あっ、くそ、お前!」
顎の痛みが頭の先に響いた男が気付いた時には、常は自由な右手で合口の柄をしっかり掴んで全部引き抜いていた。取り返そうと迫る男の、腹に乗ったままの足目掛けて刃を振る。
っわ、とすんでのところで飛び退く。その素早い動きにほっとして、常は自身も素早く身を起こすと蝶を追いかけ走る。ふらつく足を踏ん張り、若い男も後を追う。
「紅丸!紅丸!居るんだろ!」
蝶は草原に立つ大きな樹の、茂った葉に向かい空を上下して飛ぶ。この使い魔を動かせるのは、その主だけだ。
「待て、そんな足で逃げられると思ってんのか、」
「死にたくなければ追ってくるな、」
「はっ!そんな合口一つで勝つ気でいんのか、女みたいなお前が使いこなせる訳ねえだろ、」
男はやはり俊足で、どんどん間合いを詰める。
「違う、この合口は返す。でも、俺を追うのは危険だ。足を止めてくれ、」
常は半ば本気で頼んだ。幸いにして、目の色は見られていない様だ。まだ二十歳そこそこの若い男にはこれからの未来がある、反省してこんな仕事から離れて欲しい気持ちもあった。
「馬鹿言え、お前を逃す訳ないだろ。ほら、捕まえた!」
男は常の細い肩を右手で掴んだ、その鼻先を紅色の蝶がかすめる。幻聴か、蝶から声が聞こえた。
「それは俺の花だ。触れて良いと、言ってないだろ?」
確かに掴んだと確信したが。若い男の草履のすぐ側で、ぼとりと草むらに重みのある何かが落ちる音が聞こえた。ん?と下を見る、
「あ、ああっ!俺の腕、腕が、」
直ぐに男はすっぱりとなくなった肩口を見て、また足元を見た。あまりの切り口の鮮やかさに、痛みは遅れている。その腕はまだ血が通い、いつもの浅黒い肌色で若い男の着物の袖を纏う。手の平を上にして転がる様は、良く出来た作り物に見えた。
「うわぁぁぁ!」
絶叫と、吹き出る血。若い男は必死にその切り口を抑えた。痛みが一気に襲い、たまらず転げる。
「じっとしてろっ、」
常は急いで自分の袖を細く割き、のたうつ若い男の肩をきつく縛る。落ちていた合口の鞘を拾いそこに刃を収め男の肩にあてると、さらに袖の布を巻き付け、ぐっと合口を回して止血の為に絞る。そこまでやってから、やっと樹の上に立つ人影に目を向けた、
「紅丸、殺しては駄目だ。人間は弱い、もうこれ以上は止めてくれ、」
「何故、そいつを庇う。死をもって償うべきだろう。それに、何故もっと早くに名を呼ばない。そうすれば、直ぐに駆け付けた。お前が俺を頼れば反応する使い魔を付けたが、その甲斐もない。」
「……それは、…ごめん。」
常は、失血のショックで気を失った若い男の止血の手を緩めない。当然、紅丸が快く思わない事も分かっている。
「その為の使い魔だと知らなかった。」
その存在に直ぐにでも頼ってしまった方が楽な事は容易に想像出来る、しかし名を呼べば直ぐにでも来てくれるとは思ってもいなかった。
どれだけ会いたいと思い、その姿を求めても、安易に頼れないのもまた自分の中にある気持ちだ。紅丸に守られたいと思うだけの、か弱い存在に成り下がる気はない。常も紅丸を守りたいと思うから、だからこそ、人を殺して心のどこかで傷付いてほしくはない。
「はあ、…俺はお前と居ると知らぬ自分と出会い戸惑う。」
いつの間にか隣に居る、その佇まいの美しさ。見惚れる常の視線を受けながら、呆れた口調で若い男の肩口に細くて長い指が触れた。すっと血は引き、もう止血の為の布を解いても大丈夫だろう。
「腕は戻さん。そのくらいは痛みを負うべきだろう。」
「あの、血を止めてくれて有難う。」
これをきっかけに、男が少しでもまともな生活をしてくれればいいがと思う。結局、男達は片腕を失くす痛手を負った。
「さて、さっさと屋敷に帰るぞ。」
紅丸の言葉に合わせて、どこからともなくやって来た鴉がすいっと二人の近くに降りる、
「棗が待っている。お前が見付かった事はみんなに伝えた、そのうち屋敷に集まるだろう。」
案の定、黒鉄の声だ。布を解き、止血の為の合口を抜いて男の帯に戻し終えた常は、立ち上がって確信して頷く。
「やっぱり。さっきの鴉は黒鉄の使い魔だったんだな。」
「そうだ。やっと見付けて助けようとしたら、あっと言う間に駆け付けた紅丸が自分一人でやると言うからな。よっぽど男達が憎かったんだろ、」
その声は半笑いで、その時の友の形相を思い出し、可笑しそうに鴉がくちばしを鳴らす。
「うるさい。先に帰っておけ、」
「ふむ、そうするか。」
まだ可笑しそうに、くちばしを鳴らすと鴉は羽を仰いで飛び立つ。
「ここを発つ前に、怪我を治しておこう。」
紅丸が屈み、常の左足首を撫でると痛みは引き、そこから肌色は一気にオークルに染まる。
次に体を戻し、小さな顔を包み込むと瞬く常の瞳をなめた。ん、と抑えた声が漏れると、目の充血もたちどころになくなった。
更に、柔らかな髪にキスを落とせば、クリーム色の輝きは濃紺の髪色に変化し、青く日に透ける。
「後は、ここだけだ。」
紅丸の睫毛が白くけぶる。整った顔が傾き近付くのに合わせ、常はそっと目蓋を伏せながら、ああ、口の中を切っていたなと思い出した。
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