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ナツメとトキワ、8年前の話
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ナツメは、薬屋の薬草集めで入った山で、自分の為に採って来た薬草を小鍋で沸かし、頃合いを見て火から外した。
薬湯を漉しながらカップに注ぐと、テーブルに座ってふうふうと熱を冷まし少し啜った。
ケホ、ケホ、
小さく咳が出る。近頃は、随分と朝晩が冷える様になってきた。こんな季節の変わり目には、ナツメの持病も酷くなる。
「トキワ…、苦しいよ。」
名を呼んでも、側で背中をさすってくれる手はない。夜や朝の寒さも、二人で寄り添って寝れば暖かく、不思議と気管支を圧迫する苦しさも和らいだ。
先程帰った二人の話を思い出す。常は魔物によって、東の果ての果ての果てに連れて行かれて、もうこの家に帰る事はない。
「帰れなくなってごめんって何だよ…、もっと他に言う事なかったの。バカ。」
常の顔を思い出す、無精髭のだらしない三十路だが、本当はとても綺麗な男だ。
初めて会ったのは今から8年前。ナツメは常に、奴隷として売られようとしているところを救われた。
季節の変わり目、藁の屑が敏感になっていた喉を刺激し、馬の世話の途中にケホ、ケホ、と咳をした。そこに、運悪くあの女が居合わせた、それが今日の暴力行為の引き金だった。
「ああ、また咳をして!本当、お前は使えないねえ!」
太った女に横腹を蹴り上げられ、幼く痩せた小さな体はめり込んだつま先の威力で簡単に飛び、下に敷かれた藁を巻き込んでごろごろと転がった。
隅に寄せていた藁の塊に背中が埋まり、ようやく止まる。ろくろく体を洗っていない薄汚れたオークルの肌も、埃まみれの赤茶色の髪も、女の嫌悪感を煽った。
ヒゥ、
男児は空気を欲したが、息が詰まり、ただでさえ狭まっていた気管支は吸い込めない。
「ぅ…っ、」
苦しさでもがくのを、冷たい目で見る。女は、この男児が働く家の女主人で、旅人や商人相手に馬を売る商いを営んでいる。
男児に親は居ない、薄茶色の目は東国、赤茶色の髪は南国に多い。恐らく両国のハーフだと推測出来るが、幼い頃に捨てられており、誕生日も名前もなかった。
孤児の施設に居れるのは最長で7年まで、貧しい北国ではそれが限度で、男児は幸運にもその期限内に、女主人に下働として施設から引き取られていた。そう、北国に於いて幼くして仕事を得る事が出来るのは、どんな目に会おうとも野垂れ死にするよりは幸運なのだ。
「ほんっと、失敗だった。こんな病気持ちの役立たずだとは思わなかった。チッ、あの施設の所長も隠しやがって、…まあいい。明日に奴隷商人が馬を買いに来るから、お前もついでに売る話を付けてある。ああ、やっと清々する。」
女主人は息巻いて、苦しむ男児にどすどすと歩み寄った。もうひと蹴り入れようと足を上げたところで、いきなり背後から肩を掴まれた。
「なあ、その子供を俺に売ってくれ、」
若い男の声。女主人が上げた足を元に戻す、男が近寄った気配に全く気付いていなかった。肩越しに振り返ると、淡い金髪が見えた。
「なんだい、あんた。」
「馬を買いに来たけど、気が変わった。代わりにその子供をもらいたい。」
「ふん、」
「いくらだ?」
女主人は値踏みするように若い男を見た。北国の白い肌、しかし、女のようにきめが細かい。淡い金髪を伸ばし、後ろでひとまとめに括っている。長い睫毛が覆う、水色宝石の瞳。何処かの貴族とも見えるが、格好は簡素なシャツとズボンだった。
「そうさねえ、…馬一頭と同じ値段でどうだい?」
それは破格に高い値だった。北国に於いて、人の子供の値段は然程高くない。勿論、容姿の良し悪しで左右はするが、目の前の子供は顔の作りは悪くないものの、持病がある。これでは奴隷商人に売ったところで、高い値が付く見込みがなかった。
「こんな汚いなりだが、この子供は中々の顔立ちをしてるよ。本当はもっと値が高くないと困るが、あんたも随分と良い男だから特別にその値で譲ってやろうって話さ。」
女主人の強欲な言い分にも、男は文句を言わず、差し出されたふくよかな手の平に金の入った袋を渡す。時間が惜しかった。このままでは子供が死んでしまう。
男は急いで屈み込んで、男児を助け起こして背中をさすった。ヒゥ、…ゴホ、ゴホ、とやっと息をするのを見届けると抱き上げた。
「もう連れて行って良いんだろう。」
「ああ、勿論さ!」
女は喜色満面で袋を開け、金勘定に忙しい。全て銀貨、持った重さで馬一頭分の金が入っているのが分かった。思わずにやつく、この世間知らずの若い男のお陰で思わぬボロ儲けが出来た。
括った長く淡い金髪が背中で揺れる。去って行く、その細く美しい姿に声をかける。
「今度は馬を買いに来な!安くしとくよ!」
その声には振り返らず、若い男、常は文句を言った。本来なら、傭兵の仕事で得た金で馬を買い、本格的な冬の前にもうひと仕事するつもりだったのだ。
「二度と来るかっての。またどうせふっかける気だろ。ぼったくりの暴力女が、ひでえ事しやがって。」
とても、温かい腕だった。こんなふうに、今まで誰かに抱き上げて貰った記憶はなかった。
「俺はトキワ。ボウズ、名前はなんだ?」
薄い水色の瞳が光りで透ける。綺麗で見惚れていたら、急に質問をされた。
「ないよ。」
慌てて答える。トキワと名乗った若い男は、うーんと唸り考え込んだ。
「お前の名前、ナツメはどうだろう。強壮薬として使われる薬なんだ、きっと丈夫に育つ。」
ナツメ、東国の文化に則り漢字で書くならば棗。常は男児に名を与えた。それも初めての事で嬉しかった。施設では番号で呼ばれ、女主人にはそれすら呼んでは貰えなかった。
「うん。」
それからは、ずっと家族の様にこのボロ家で一緒に過ごして来た。
棗は、トキワの名にも常という漢字がある事を知っている。初めて読み書きを教えてくれたのも常だった。東国では、随分と昔は漢字を常用していた時代があったが、現代では他国と統一されアルファベットからなる共通語を使う。しかし、東国の一部の者は名前を付ける際には昔の名残りで漢字を当てがう。
読み書きを覚えた棗は、常の恩に報いようと、少しでも役に立とうと、自分の薬代を浮かせる為にも薬草の事を学んだ。幸い、隣は気の良い主人が居る薬屋の大店で、熱心に学ぶ棗は気に入られ、現在では薬草採りのアルバイトを任されている。
「会いたいよ、トキワ。」
例え、本当の家族ではなくても、棗にとって常は唯一の大切な家族だった。
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