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西国への、その旅路
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「常様は甘い物がお好きだから、きんつばかきんとんか…、」
緑太は常の為に畑から採ってきた薩摩芋を台所へ置いて悩んだ。まだ午前中、この時間帯は常は寝ている筈だが、薬湯を淹れて部屋を訪ねる事にした。もし起きているならば、どちらが好きか尋ねてみようと思っての事だ。
「常様、常様。」
障子の前に立ち声を掛ける。返事が無いので、やはり寝ているのかと少し隙間を開け中を窺う、
「常様?」
布団は人が抜け出た様子を残し、掛け布団が乱れたまま畳まれてはいない。しかし肝心の常が居らず、緑太は薬湯を明かり取りの下の文机に乗せて布団に触れた、人肌の温かみが冷めている。何処へ行ったのかと、昨夜からずっと絶っていた息を吸い込んだ。
おかしな事に、牡丹の間に常の香りが感じられない。この部屋だけではなく、あれ程屋敷を覆っていた牡丹の香りが全て消えている。いや、良く良く嗅げば微かに縁側から残り香がした。
「まさか!この屋敷を出て、」
一人では出れる筈も無く、自分で認識していない香りを消す事も常には出来る筈も無い。しかし、強い妖力を持つ魔物ならば全ては可能な事。
「誰か来たのか、」
緑太が畑に行って帰って来るのに半時ほど、たったそれだけの時間だった。屋敷を訪れる事が出来る者は限られる。この屋敷は主の許可なくしては易々辿り着けず、もし辿り着けたとしても一度許しを得た者でなければ入る事は出来はしない。
最近此処へ来たのは白楊の使いだった。人間嫌いの白楊にしては珍しく、常の事を気にしていた。それが嫌悪から来るものでは無いと緑太は感じていたし、実際に寝ている常に寄り添う事すらしていた。
「…もし白楊様が連れ出したというのならば、何故、」
理由が分からない。何か、常は白楊の怒りに触れたのか。いや、先ずは本当に白楊の仕業なのか、それを確かめなければならない。
中庭に出る、微かに此処にも牡丹の香りがする。緑太はいろは紅葉の葉を一枚手の平に乗せた、それを両手で挟み込む、
「この香りを辿り、御方様の元へ行け。」
そう命じて両手を広げれば、中から蝙蝠が飛び出した。手足を広げても手の平サイズのそれは、耳は尖り跳ぶ為の飛膜を有した正に蝙蝠だが、色は先程の葉と同じ紅色だった。
あっと言う間に小さな姿は見えなくなり、緑太はその存在を視覚ではなく自分の意識の一部を通して感じる。蝙蝠が無事に常の元へ辿り着ける事を願った。
「紅丸様、お早く。」
主の許可無く屋敷を無人には出来ない。常の事を思い、その無事を祈った。
常は白獅子の背に乗せられ、まるで飛ぶように山を越え野を駆け跳んだ。しかし目が見えない常は、強い風を受けて身を竦めるばかりで必死に獣の背に縋った。しっかりと指先に力を込めても、呆気なく強風に攫われ体が浮く。幾らも進まぬ内に白楊が見兼ね、その危なく揺れる体に腕を回して胸に寄せた。
「…お前は軟弱だの。」
常は全くだと小さく頷いた。きちんと声を出したいのだが、息をするのもやっとの有り様で、言葉にならない。
そもそも常は傭兵で生計を立てていたし、馬の早駆けも得意だしそれなりに腕は立つのだ。しかし、あの果ての屋敷へ来てからというもの、周りは敵わぬ相手ばかりでその腕を活かす事も無く、鍛錬とは無縁の生活を送って来た。二十日あまり、その間にこれ程までに筋力は衰えるのか…まるで非力で、思った様に力が出ない。
それからどれ程駆けたのか、まだ午前中の内に、高速馬車よりも圧倒的に速い白獅子は街中を避けながら国境まで来た。
「そろそろ西国に着く、」
白楊の声が思わぬ近さで聞こえる。常は、開けても見えぬのと、風圧の為に目蓋を閉じたままにしている。
一見すると寝ているのかと思うが、白楊の袖を掴む手が起きているのだと知らせる。
「私の屋敷は素晴らしいぞ。見晴らしも良く、空気の澄んだ高台にある。ああ、そうだお前には見えぬな、残念であろう。」
残念、確かに少しの心残りはある。しかし、それは白楊の言うような素晴らしい棲家を見れない事ではない。
仮に預けている瞳は、魔法を解けば完全に白楊のものになる。生を終えるその日まで、二度と何も見る事は無い。
ならば、その顔を最後に一目。
せめて一目でも見たかったと、その顔を眼裏に浮かべた。もう叶わぬ事、それを決めたのは他ならぬ自分自身だった。
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