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人魚
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それを見たのは、まだ自分で靴紐も結べなかった頃だったと思う。
記憶は人だかりから始まる。
俺は母の腕に抱かれ、皆が、母が、そして自分が何を待っているのか解らないまま辺りを見回していた。
母の腕に抱かれていなかったら小さな俺なんか踏み潰されていたのではないか、と思うほどそこには沢山の大人がいて、一つ一つの言葉として認識ができないほどにざわざわと声が氾濫していた。
そこはまるで海の中だった。
上も下も横も真っ青で、そこら中に色とりどりの魚が泳いでいた。
綺麗で不思議な場所ではあったけれど、こんな場所にこれだけの人がいたら、何かの拍子に底が抜けてしまうのではないかと恐ろしくてたまらない。
恐怖から母の服を強く握り、人が発する熱に頬を熱くしながらただひたすらに待っていた。
何を、かはその時の俺には分からなかったのだけれど。
がやがやと騒がしい中でひときわ大きな声が聞こえると、照明がだんだんと暗くなり、反対に水の中は光で満たされていった。
恐怖を忘れ、なんて綺麗なのだろうと夢中で天井を見上げ母にも何度も綺麗だと告げたけれど、それが伝わっていたかはわからない。
大人たちが大きな声を出したり、祭りの時のように手を叩いて口笛を吹いていたから。
光る水の中を漂う魚を眺める俺の耳に母が唇を寄せ、あれを見るように、と言った。
あれとは何だろう、と考え視線を巡らせる。
俺を抱く母の腕に力がこもった直後、視界がぐっと上がって、自分達が何を待って大人たちが何を騒いでいたのかが、漸く解った。
そこにいたのは、人だった。
水の中を垂直に漂っている、人。
確かに人であるはずなのだけれど、本来二本の足があるべき場所は、黄色のうろこで覆われていた。
いや、黄色だけではなく緑、青と、光が当たる度その色は何度でも変わった。
なんと言い表せば良いか、とにかくそれは美しかった、とても。
そして背筋が冷えるほどに恐ろしくもあった。
長い髪が水の流れとともに揺れて、魚がその中を潜り抜ける。
こんなに美しい姿をもつその生き物は、一体どんな顔をしているのか。
首をのばして傾けて、どうにかしてその顔を見たいと思ったけれど、すんでのところで髪や、魚や大人たちの頭で隠れてしまう。
もしかしたらその生き物には顔がないのかもしれない。
だから見られないのではないのだろうか。
そう考えて、大人しく母の腕の中でその生き物を見つめることにしたけれど、気持ちの底では顔を見てみたい気持ちが疼いていた。
ひらりひらりと揺れる髪をもつその細い体がゆっくりとくの字に折れて沈んでいったのは、その生き物が現れてから数分しか経っていない頃。
天井を向いた指先と髪が、出口を求めるかのようにゆらゆら揺れていた。
沈んでいくその生き物に合わせて首を伸ばし、同時に母に必死にたずねた。
あの生き物はどうしてしまったのかと。
その答えをもらう前に、その生き物の姿は人の影に完全に隠れてしまった。
その生き物の名前を教えてもらったのは、新鮮な空気を吸ってからのことだった。
人魚という名前をもつその生き物は、長らく存在しないと言われてきたそうだ。
おとぎ話の中でのみ生きているものだと。
けれど、その存在はあの日、一般に展示されることによって証明された。
そうやって見世物にされてすぐに死んでしまった人魚は、綺麗な体の中身を調べ尽くされた後、剥製にされたらしい。
その姿は公開されることはなかった。
あれ以来俺たちは人魚の姿を目にしていない。
あの人魚でさえ、作り物だったのではないかと噂する人間もいた。
だからすぐに死んでしまったのだと。
作り物でも何でもいい、もう一度あの美しい姿を見たいと思う。
あの輝く姿を。
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