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「ああ、なるほど……!!だからこの意味になるのか!」
楽しそうに弾んだ鹿賀の声。一緒に住んで何日か経ったけれど、俺はそれを初めて聞いた。
いつもは無気力な声が、嬉しくて仕方ないと言っているのがわかる。
「どうしても前後の文章が繋がらなくて。理解はできるけど、そういうのって許せないんですよ」
「ここは意訳も混ぜてあって、変則的だから」
「それって狡いですよね。突然砕けた感じになるなんて、誰も思いつかない」
「そこがこの作者のいいところでもある」
嬉々とする鹿賀が言葉を交わすのは、もちろんリカちゃんだ。感情たっぷりの鹿賀に返すリカちゃんの声は淡々としていて、けれど丁寧に答えてやっていた。
鹿賀が俺とリカちゃんで態度を変えるのは慣れているけど、驚いたのはそこじゃない。
2人の距離だった。
ソファに座ったリカちゃんが広げた本を、鹿賀が覗き込む。隣ではなく足元に座り、身体を伸ばして距離を詰めている様子。
今まで、2人の間には絶対的な空間があった。リカちゃんは鹿賀を必要以上に近づけないし、鹿賀だって自分から寄って行ったりはしない。それなのに今は違う。
触れ合ってはないけど、触ろうと思えば触れる近い距離間。1冊の本を2人で読む光景は、まるで自分たちのようだった。
違うのは、俺はリカちゃんに教わっていて、鹿賀はリカちゃんと対等に話せるということ。
実力差を見せつけられている気分になる。
「ところで先生、部屋着貸してくださいよ。先生細いから、僕でも着れると思うし」
「嫌だね」
嫌ならもっと強く断ればいいのに、リカちゃんの声がやけに甘く聞こえる。だからなのか、鹿賀は怯むことなく食らいつく。
「それなら僕の分も一緒に洗濯してください。毎回コインランドリーに行くの面倒くさい」
「それも嫌。自分の分は自分で何とかするって約束したろ」
すごく近い距離にいる2人。楽しそうに話す2人。その光景に、俺の足は全く動かない。
ぼんやりと見つめる俺に先に気づいたのは……鹿賀だった。
「あ、帰ってきた」
その言葉に裏がある気がするのは、俺の気のせいかもしれない。まるで邪魔者のように言われて、ムッとする。
けれど、それ以上に鹿賀が先に気づいたことがショックだ。
遅くなるなら迎えに来てくれるって言ったくせに、俺の帰りを待ちわびていないリカちゃんが気に入らない。
「リカちゃん」
鹿賀を無視して話しかけると、やっとリカちゃんがこちらを見た。部屋着に眼鏡、髪を軽く結った姿で笑う。
「おかえり慧君」
「……ただいま」
「どうかした?」
別段どうもしていないけど。リカちゃんにとっては、気にしていないことかもしれない。でも、幸のことで動揺していた俺には、結構なダメージがある。
「別に。風呂、入ってくる」
「わかった。じゃあ俺も仕事片付けてくるかな……またわからなかったら言って」
リカちゃんが鹿賀に本を渡す。ちらりと見えたそれは、いつか鹿賀が持っていたあの本。
分厚くて、難しそうで、そして英語で書かれた本。俺がリカちゃんに読んでもらっているものよりも、難しいであろうことがわかる。
「コツさえわかれば、これぐらい余裕です」
俺なら投げ出すそれを、鹿賀は読める。余裕だって笑えるぐらい簡単に。
「はいはい。お前が頭いいのは知ってるから」
そう言ったリカちゃんはキッチンに向かって行き、シンクの前に立った。それを追いかけるのは鹿賀で、対面式のそこから覗く。
「先生、僕もコーヒーください」
「は?お前、俺を使うなんて生意気なんだけど」
「使ってるんじゃなく、お願いしてるんですよ」
呆れつつも、ちゃんと鹿賀の分まで淹れてあげる。それが鹿賀のだって断定できるのは、俺はコーヒーを飲めないからだ。思いっきり甘くしないと飲めないそれを、鹿賀は飲める。
マグカップを片手にキッチンを出たリカちゃんは、俺の脇を抜けて廊下を進む。仕事部屋へ向かう途中で振り返り、こちらを見た。
ふわっと笑って「慧君、1人が嫌なら一緒に入ってやろうか?」って言うんじゃないか。そう思ったけど。
「鹿賀」
リカちゃんが呼んだのは、俺じゃなく俺の後ろにいる人物の名前。俺を視界に入れながら、俺じゃないやつに話しかける。
「その作者の本、他にもあるけど読む?それよりも難しいけど」
リカちゃんの問いかけに鹿賀は当然のように頷き、顔を上げて口を開いた。
「またわからなかったら聞いても大丈夫ですか?」
「いいよ。持ってくるから待ってて」
部屋に消えたリカちゃんは、すぐに戻ってきた。その手にはやっぱり俺の知らない物があって、俺じゃなく鹿賀がそれを受け取る。
「もう何回も読んで覚えてるからお前にあげる」
俺の目の前で鹿賀の手に渡ったそれ。リカちゃんが「あげる」と言った本を、鹿賀は両手で持つ。
「ありがとうございます……先生」
なんで、そんなに嬉しそうにしてるんだろう。たかが読み古した本なのに、大事そうに抱えてるのは、どうしてだろう。
そんな考えなくてもわかることを、つらつらと考えているうちにも時間は進んでいく。
俺が幸と一緒にいる間、この2人は一緒だった。俺の知らない話をして、俺の知らない共通点を持って、そして俺の知らない物をリカちゃんがあげた。
俺じゃなく、鹿賀にあげた。
2人は2人の時間を進めていった。
ただそれだけのことに、苛々した俺はリカちゃんを見ずに風呂場へと向かう。
シャワーを浴びてさっぱりしても、心の靄は消えない。リビングで本を読む鹿賀を、俺は本気で殴りたいと思った。
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