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何度も置いて行かないでと願ったはずなのに、いとも簡単にいなくなる。行くなと言いかけた口を無理に閉ざしたのは、絶対に破らないと自分自身で誓ったこと。
それは自分の存在理由であり、揺るがないもの。全てを1人の為に。
『兎丸慧の為だけに生きる』そう決めたはずなのに胸の奥の奥が痛い。
「行かないで」
心に溢れるその声は届くわけもなく、颯爽といなくなる。目の前のことに夢中になる君は、いつ帰ってくるのだろう。
出ていった慧を引き止めも呼び止めもせず、その後ろ姿を見つめる。誰かあの子を1人にしないでと願うことしかできなかった。
──少しだけ時は遡って。
重たい空気が流れる部屋。乱暴に閉められた扉が鈍い音を立て、足音が遠ざかっていく。
ゆっくりと振り返ったその表情が泣きそうで、寄った眉を見て笑みが零れた。
「なんで歩がそんな顔してんの?」
声をかけると、寄っていた眉が吊り上がる。
「なんで慧を引き留めなかった?兄貴が行くなって言ったら、行かなかったかもしれないだろ」
「本当にそう思う?ああなった慧君は、俺でも止められない」
「それでも声ぐらいかけるべきだったんじゃねぇの?」
さっき言い合っていた本人のくせに、今度は慧の心配をする歩。今すぐにでも追いかけろ、と言わんばかりの視線に、苦笑が漏れる。それを咎めるのは、もちろん歩だけだ。
「なに笑ってんだよ。慧が出て行って、とうとう頭おかしくなったのか?」
「やっぱり歩は優しいなと思って。さっき言ってたことも、全部俺の為だもんな」
「はあ?違ぇよ。あれは慧がなめたこと言ってたから」
「はいはい。それよりも、そんなに元気有り余ってるなら何か入れて。久しぶりに大きな声出したから喉が渇いた」
手を振って促すと、不服そうにしながらも歩がキッチンに向かう。珍しく刃向かってこないのは、歩なりに罪悪感を抱いているからかもしれない。
自分が慧を追い出したと思っているのだろうか。そうだとしたら、それは間違いだ。
「別にお前が責任感じることないから。慧が出て行ったのは、全部俺の所為だしな」
そう言ってやると、コップに注ぐその手が止まった。明らかに鈍くなった動きで、けれど何も言い返してこない。
「ああ……でも、物を投げつけたのは良くなかったかな。当たってたら怪我するところだっただろ」
「注意すんのがそこかよ……っつーか、お前あれだけ酷いこと言われて、なんで慧にキレないわけ?」
ソファに座った俺の傍までやってきた歩が、テーブルの上にコップを置く。そこにはオレンジジュースが注がれていて、前に慧と揉めた時のことを思い出した。
感情的になって強引にしたキスの時に感じた、甘い味。それが頭を掠めて胸が痛む。
「あいつ、あり得ねぇだろ。兄貴と幸を比べて、兄貴に幸になれなんて……バカだろ」
「そういう突発的なところが慧君の可愛いところなんだけどな」
「お前もバカか。ああいう時は怒れよ。ちゃんと怒って、言いたいこと言わなきゃ慧には伝わらない」
荒々しく舌をうった歩が唸る。ここまで感情を顕著にする歩は、本当に珍しい。
「そうは言われてもな……俺だって冷たいこと言ったから。でも、何を言われても駄目なんだよ」
「何が?」
「どうしてそんなこと言うのかより、どうすれば慧の求めているものになれるかを優先してしまう。たとえそれが理不尽だったとしても、喜んでもらえるなら構わない」
こうあれと言われれば従うし、多少の無理も厭わない。
ただ……
「今回のは相手が悪かった。だから、つい大人げなく言い返しちゃった」
冗談混じりの本音と共に自嘲の吐息が漏れた。それに気づいた歩が表情を暗くする。
「幸か。確かにあいつは厄介かもな」
「厄介というか、あれは確実に慧君の好きな人種だからね」
「幸は慧を否定しない、怒らない。いつだって慧の味方で、慧の話を聞いて慧の言いたくないことは無理に聞かない」
歩の口から語られる『幸』の話にため息しか出ない。
逃避がちになる傾向のある慧にとって、うってつけと思える人物。
自分を優先し、自分のことをわかってくれ、自分に『特別』をくれる人物。
初めて会った時に向けられた、値踏みする目。2回目に会った時に鋭く変わったそれは、慧にとって善か悪かを見定めているようだった。
「幸ってさ。前から思ってたんだけど……」
遠慮がちに歩が口を開く。その続きが予測できて、でも聞きたくないと思った。自分以外にもそう思うやつがいるなんて、しかもそれが実の弟となれば決定打になってしまう。
けれど歩は、そんな俺の心情を無視して続ける。
「兄貴に似てるんだよ。慧を甘やかしてる時の兄貴に。だから俺も慧も、幸と一緒にいても違和感を感じないんだと思う」
「……だろうな。俺もそう思ったから、お前が感じたそれは当たってるんじゃないかな」
認めた俺を見て、歩が瞠目する。そんなに驚くことかと思う反面、素直な態度が面白くて僅かに口元が緩んだ。
「慧が幸を好きになったら……兄貴はどうすんの?」
問いかけてきた歩の声が、頭に響く。
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