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「ウサマル、聞いてる?」
タイミングの良すぎる幸からの電話。それを俺は、何も聞いていなかった。ただ、助かったとだけ思っていた。
「悪い、なんて?」
軽く謝ると向こうからため息の音が聞こえる。
「だから、俺のとプリント間違って持って帰ってるで。今日提出しようと思ったら、お前のやってんけど」
「え?マジか。ってか、提出って今日だっけ?」
幸が言うプリントとは、厳しくて有名な先生から出されたやつだ。期限を守れない生徒に容赦なくて、単位を渋る爺さん。そのプリントの提出期限が今日だったことを、すっかり忘れていた。
「安心し。ウサマルの分は俺が出しといたから。ちなみに俺のは次の講義までって勘弁してもらった」
「……じゃあこれって何の電話?」
「そんなん、暇やったからに決まってるやん。うーちゃん休んだら俺1人ぼっちやもん」
冗談っぽく言った幸だけど、きっと俺のことを心配してくれているんだろうと思った。最近は何かとサボりがちだったし、今日に至っては連絡すらしていなかったからだ。
幸が笑う度にホッとする。まだ問題は山積みなのに、すごく安心した。
「ウサマル?」
黙り込む俺を幸が呼ぶ。何か返事をしようと幸の名前を口にした時、微かに聞こえた声に、開いたそれをすぐさま噤んだ。
──幸、電話してんの?
それは歩の声だった。怒鳴り声でもない、淡々としたいつもの歩の声。もう何年も聞いて、すっかり覚えているそれだ。
「あ、ウサマルやっと捕まったで」
「貸して」
咎める幸の文句が遠ざかる。少しの沈黙を挟んで、最初に聞こえたのはため息だ。
「慧。お前どこで何してんの?」
長年の経験から、歩の機嫌が悪いことはわかった。けど、さすがに第一声では怒鳴らないらしい。そのことに安心して、肩の力を抜く。
「別に……歩には関係ない」
「まあいいけど。あいつとまだ一緒にいんの?」
「あいつって?」
「不登校児。ああ、今は元だっけ」
ハッ、と鼻で笑った歩にイライラした。不登校の原因を知らないくせに、バカにしたことが嫌で、つい声が荒くなる。
「鹿賀なら拓海と一緒だ!拓海はお前と違って、ちゃんと話を聞いてやれるから!!」
「拓海?なんだ、幸じゃなくて拓海の家に行ったのか……へぇ」
「それがなんだよ。お前は知らないけど、鹿賀だって苦労してる。あいつがどれだけ可哀想なやつか、歩は知らないだろ!」
電話の向こうからまた吐息の音が聞こえ、どんどん頭に血が上る。歩が鹿賀を気に入らないとしても、それを俺に当たるなって言いたくなる。
そして、言わなくて良かったとすぐに思い直した。
「お前、今度は拓海に押しつけたんだ?兄貴の次は拓海、そうやって自分の意見押し付けて、それが違ってたら次は拓海に喧嘩吹っかけんの?」
「な、にそれ。歩は何言ってんの?」
「それでよく兄貴のこと優しくないって言えたよな」
聞こえてくるセミの鳴き声がうるさい。もう7月も終わるのにまだ鳴いてて、降り注ぐ日差しが熱くて痛くて、頭がクラクラしそうだ。こんな状態じゃ何を言われてるか、よくわからない。
ただでさえ、歩は言っていることが遠回しで難しいのに……。
「歩の言ってる意味が……わかんない」
声が掠れたのは、夏の暑さのせいだ。渇いた喉が張り付いて、上手く出せなかったせいだと思いたい。そうであってほしかった。
「わかんない?違うだろ、わかりたくないだけだろ」
自分自身で抑えていたものを、歩が強引にこじあける。
「兄貴は絶対に言わないから俺が言ってやるよ。お前は、不登校のことを可哀想だって下に見て、頼られて調子に乗った。見えているものだけで全部判断して、何の事情も知らないで兄貴だけを責めた」
「それはリカちゃんが言わないから…っ、聞いていれば俺は!」
「幸みたいになれなんて言わなかった?バカか、知ってても普通は言わないんだよ、そんなの言えるわけないだろ」
さっきよりも大きくセミが鳴いているのに、もうそんなの聞こえない。歩の声だけが頭の中に飛び込んでくる。
「なんでお前は兄貴に優しくできないわけ?なんで自分の見たものだけで善悪を決めるわけ?可哀想な不登校に優しくしてやった、立派な慧君」
瞬間に音が全部やんで、歩の一言だけが突き刺さる。
「相手を間違えんなって言っただろ。俺、お前が誰を大事にしたいのか全然わかんねぇわ……わかりたくもない」
聞こえなくなった歩の声。繋がっているはずの電話が無言を伝えてきて、俺はその場に立ち竦む。すると突然吹いた風で舞った砂が顔に当たり、瞑り損ねた目に入った。
痛い。すごく痛くて、痛くて、痛すぎて涙が滲んでしまう。でもここには「大丈夫?」って聞いてくれる人はいない。擦ったら傷つけるから駄目って教えてくれる人はいない。
すごく惨めな気分だ。
俺は、可哀想だと思った鹿賀に優しくしたかっただけ。心を開いてくれたあいつに、優しくしたかっただけなのに。
砂の取れたはずの目から、ぽたりと涙が零れる。これで最後にしようと強く目を閉じると、やっと音が聞こえた。
「ウサマル、今どこおるん?バンビちゃんと一緒じゃないん?」
それは声量を落とした幸の声。
「今は1人。鹿賀は拓海と……俺の友達と出かけてて、今日も泊めてもらうって言ってた」
今、俺は1人だ。今度は俺が1人になって、どうしようもなくなっている。
「そうなん……うん、わかった」
「わかったって何が?」
訊ねると、電話の向こうから咳払いが聞こえる。さっきまでよりも格段にゆっくり、けれど明るい声で返事がきた。
「断固ウサマル派の蜂屋君としてはな、今が正念場やと思うねん。ここでさらに株上げて、隊長の座を守らなあかんやん?だから、だからな」
冗談ばかりの幸。幸の言葉にはいつも助けられてきた。笑わせてくれたり緊張を解いてくれたり、励まされたりもした。
そして、また。
「おいで。俺はいつでもウサマルの味方やで」
この選択が正しいかどうかは、今は考えたくない。
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