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32.あいつの話
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専門学校を卒業した後、拓海は美容師になった。今はまだ雑用がメインだけど、それでも昔からの夢を叶えた。
それから、大学で知り合った幸も。あの怪しげな関西弁を話す蜂屋幸もまた、自分の夢を叶えた。きちんと教員免許をとって、今では高校で日本史を教える教師だ。
俺の周りは、みんな着々と夢を叶えている。それを羨ましいと思う気持ちがないわけではないけれど、素直に喜べるし凄いと思う。
その中でも誰よりも凄い……というか、凄いでは済まされない男がいる。それが牛島歩だ。
「歩がこっちに戻って来るのって、半年ぶりぐらい?あいつ、ゴールデンウィークにもお盆にも帰って来なかったし」
「向こうはこっちと勝手が違うからね。確か向こうでの長期休みは5月からだし、夏にはサマースクールがあるから帰って来れない」
「サマースクール?何それ?アメリカでは夏休みなのに学校があんの?それとも夏休み自体がないのか?」
「夏休みは3ヶ月近くあるけど、サマースクールに参加する学生は多いよ。あっちは卒業する方が大変だから、サマースクールで単位を稼ぐのも1つの手だ」
留学経験のあるリカちゃんが、そう教えてくれる。何も知らない俺は頷くことしかできなかった。
俺と同じ大学に通っていた歩は、卒業を待たずしてアメリカに留学した。
歩から初めて留学の話を聞いた時、とても驚いたことを思い出す。あの時は冗談だと思って出発の日まで疑っていたっけ。
でも疑って当然だったと思う。だって、俺は歩はずっと日本にいるものだと思っていたからだ。
自分から行動することが嫌いで、どうやって楽をするかを常に考えている歩。そんな歩が苦労するに決まっている外国に行くなんて、想像もしていなかったからだ。
それに、日本には桃ちゃんがいる。あまり喧嘩することもなく上手くいっている2人が、まさか遠距離恋愛を選ぶなんて思っていなかった。
それなのに歩は簡単に留学を決めた。まるで夕飯のメニューを決めるみたいに、誰に相談もせずに決めやがった。
……いや、違うか。1人には相談していた。
それがこいつだ。
「歩の語学力がどれだけ伸びたか楽しみだ」
満足そうに言ったリカちゃん。歩が唯一、相談した相手。それは恋人の桃ちゃんでもなく、友達の俺や拓海でもない。
実の兄で、ある意味で歩の大好きな相手。
「たった1年ちょっとで、ペラペラ喋れるようになってるわけがない」
中学、高校と6年間教えて貰っても普通は話せないのに。いくら本場に行ったからとはいえ、この短期間ではそう簡単には話せないだろう。
それをリカちゃんに言ってやると、ふふっと含み笑いが返された。
「歩はやると決めたらやる男だからね。あいつなら最短で帰ってくるんじゃないかな」
「最短って?」
「1年。アメリカのロースクールで1年学んで、こっちの法科大学院に編入。そこを2年で卒業したら、次は司法試験を受けるんだけど、それが最も高い壁かもね」
「……そんなに?!あいつ、どれだけ勉強が好きなんだよ」
「好きではないだろうね。いつも死にそうな顔でテキスト読んでたし。でも、そうでもしなきゃ歩のプライドが許さないんだよ」
どれだけ説明されても、俺には歩の考えがわからない。何度も難しいテストを受け、厳しい審査に挑む気持ちが全く理解できない。
けれど俺は歩の努力を知っている。
大学の卒業に必要な単位を1年の時から詰めてとり、難しいゼミにも参加し、寝る間も惜しんで勉強していたことを知っている。
それは、桃ちゃんもだろう。だから留学することを反対しなかったんだろう。
そんな歩が帰ってくる。
あの偉そうで性格の悪い男が、言葉の通じない国でどう過ごしていたのか……ちょっとは優しくなったかもしれないし、向こうで苛められているかもしれない。
楽しみのような、少し焦ってしまうような複雑な感情になった。
リカちゃんが教えてくれた歩の帰国は、俺にとって想像以上に良い報告だった。モヤモヤとしていた気持ちが、気づけば消えていた。
それなのに。
それなのに気持ちは簡単に左右される。
「獅子原さん。こんばんは」
帰ってきたマンションのエントランスで出会った人。
白くて細い腕を振り、嬉しそうに笑う綺麗な女の人。
薄いピンク色の唇が微笑んでいた。
ピンク色の唇がリカちゃんのことを呼んだ。
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