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36.静かに積もるこの感情
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どこまでもあの女の甘い匂いがついて来る気がして、玄関に入ってもあの目に見られている感じがする。振り返ればあの人の良さそうな目で微笑まれ、柔らかく高めの声で話しかけられるような気がしてしまう。
けれど実際はそんなことはなくて、家に入ってしまえば『安全』なのに。それなのに、どうしてまだ心臓がバクバクと鳴っているのだろう。
どうして俺はあの人をここまで怖いと思ってしまうのだろう。わからない。わからないけれど、もう二度と会いたくないと思うほどには苦手だ。
「……はぁ」
俺が零したため息が静かな玄関に響く。仕事用の革靴を脱ごうとしていたリカちゃんが顔を上げ、俺を見た。
「慧君?」
「別に何もない。ちょっと疲れただけ」
「そうか。仕事終わりに連れ回してごめんね。すぐにシャワーを浴びて、今日はもう休んで」
もう休んでって言い方は、俺1人でってことだ。それは、リカちゃんは一緒に休まないってことを意味しているんだ。
どうして。仕事だからかもしれない。
本当にそうなのか。もしかしたら、この後出かけるのかもしれない。
こんな時間に、誰と、どこへ。
もうすぐ23時を迎える今、行くなら桃ちゃんの家かもしれない。歩が帰ってくるから片付けに実家へ行くのかもしれない。
かもしれない候補を、いくつも頭の中で並べて考える。でも、それとは別に身体が勝手に動いた。
咄嗟にリカちゃんの腕を掴んでしまった。
「慧君?」
「……どこか、行くのか?」
「え?」
「もう休んでって、リカちゃんは俺を置いてまた出かけるのか?どこに?こんな時間に、誰とどこに行くんだよ!」
俯いてしまったその上で、リカちゃんはどんな顔をしているのだろう。何の根拠もないことに不安になって、俺はどうしてこうも女々しいのだろう。
いじいじしているくせに言葉は出ず、不安なくせに素直になれない。ストレートに言えばいいのに、遠回しに聞くことしか出来ない。
そんな自分が嫌いだ。昔からずっと、ずっと嫌いだった。嫌いで仕方なかった。
俺は、変われたと思っても同じことを繰り返す。だから嫌いなんだ。自分が嫌いなんだ。
「リカちゃん…………」
行くなでもいいし、家に居ろでもいい。この扉から出なければ、リカちゃんは俺だけのリカちゃんだから。誰にも会わせなければ、誰にも取られないのだから。
リカちゃんが誰にも会わなければ、俺は不安にならずに済むかもしれない。
そんな歪んだ感情が指先から放たれ、リカちゃんのスーツに皺を作る。気づけば俺の頭の中は、黒い気持ちでぐちゃぐちゃになっていた。
真っ黒でドロドロで、誰にも見せられない色に染まっていた。
「ねぇ、慧君」
上げられないままの頭上で、リカちゃんの声がする。それはさっき聞いた蛇女の声よりも遥かに甘く、全身の力を奪うような不思議な力をもった声だった。
そうして、ゆっくりと時間をかけて顔を上げる。恐る恐る見つめた先には、強い眼差しを放つリカちゃんの真っ黒な目がある。
「慧君。俺に出かけてほしくないなら、出かけられないようにすればいい。俺は慧君しか見えていないから、慧君が相手してくれれば簡単に何もかも忘れちゃうよ」
緩く開いた唇がそう紡げば、自然と俺の身体は動いていた。2人の身長差を埋めるように背伸びをして、リカちゃんの唇に自分のそれを寄せる。
瞼を閉じる寸前に見た黒い瞳は、蛇女のそれよりも冷たく──俺を痺れさせた。
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