アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
45.始動
-
ひとつ前に進んでは、ひとつ後退して。今度はふたつ進んで、またひとつ後退する。何も変わっていないようで、何かが変わっている毎日。
こうして少しずつ今の生活に慣れ、今の状況を受け入れ始めた頃。完全に満足はしていないものの、それでも頑張ろうと思い始めた頃。
それは静かに、けれど確かに近づいてきた。
足音を殺し、息を潜め、音もなく俺たちの背後に忍び寄ってきていた。
* * *
「こんにちは」
エレベーターの扉が開き、中にいた人物が会釈をする。甘い匂いを撒き散らし、マシュマロまたいな柔らかい笑顔で。
朝でも昼でも。夜でも夜中でも明け方でも、こんな笑顔なら誰だって喜んで受け入れるだろう。人間関係がド下手だって言われる俺でさえ、そう思わせる魔法の笑顔だった。
でも俺は違う。俺はマシュマロはあまり好きじゃない。
「どうも」
愛想の悪さを自覚しながら、でも感情を包み隠さずに返事を返す。すると先に乗っていた彼女は横にずれて、俺が乗りやすいようにしてくれた。
正直に言って乗りたくない気持ちは100%だ。もし過去に戻れるなら、俺はエレベーターを使わずに階段で降りるだろう。
「…………どうも」
また同じことを言ってしまったけれど、俺はこの人と同じ空間にいたくない。
初めて会ったあの時から、俺はこの人が──ピンクの人妻こと、蛇光さんが苦手だ。
「慧くんは、今からお出かけ?」
そんな俺の心情など伝わるわけはなく、当然のように蛇光さんが話しかけてくる。愛想の悪い俺にさえ笑顔で、優しく甘い女らしい声で。それが聞こえる度に自分の性格の悪さを痛感してしまう。
「今日は遅い時間の授業しかないから。こんな時間でも大丈夫」
「そうなんだ。気をつけてお出かけしてね」
蛇光さんの言葉にチクリ、と小さな棘が胸を刺す。
この人にとって俺の仕事は『お出かけ』レベルらしい。その証拠に蛇光さんはリカちゃんには「お仕事ですか」と訊ねるくせに、俺には出かけるのかと聞いてくる。
そりゃあ俺はただのバイトだし、リカちゃんはきっちりとした教師だ。それは誰からも認められる立派な『仕事』だと思う。
でも、俺だって。俺だって俺なりに頑張ってる。
だけどそれは、この人には全く伝わらない。
「もう慣れた通勤道だし、平気」
仕事だと主張するのはあまりに幼稚に思えて、控えめに通勤と言ってみる。それでも蛇光さんには伝わらず、にっこり笑われて終わるだけ。
別にこの人が悪い人だって言いたいわけじゃない。それに、この人にどう思われようが大きな問題でもない。
なら、どうして俺がこの人を苦手なのか。
どうして俺が、この人と同じ空間にいたくないのか。
その理由はとても簡単で、単純なものだった。
「ねぇ慧くん。今日って獅子原さんは早く帰れそう?」
「知らない……けど。それが?」
「実は美味しいパン屋さんを見つけてね。きっと獅子原さんも好きだと思うの。だからお店の場所を教えてあげたくて、でも口じゃ上手く説明できないから……良ければ一緒に行きたいなぁと思って」
はにかみながら笑うのは、控えめで好感が持てるのだと思う。口じゃ説明できないのも、この人なら可愛らしいと言われるのだと思う。
この人に一緒に行こうと言われたら、悪い気はしないのだと……思う。
そう思っても俺の心は反対のことを叫ぶ。
どうしてリカちゃんなのかって。別にリカちゃんはパン屋になんか興味ねぇよって。
俺のリカちゃんに、話しかけんなよって。
はっきりと言えないもどかしさが辛い。だって、この人には俺たちの関係を親戚だと言ってしまったから。ただの親戚が、お互いの行動を制限するなんておかしいから。
だから言えない。俺にはこの人を止める権利はない。たとえこの人が人妻だとしても、親戚役の俺が割って入るのは何かが違う。
「……さあ?でも、リカちゃんは……パンより米派だったと思う」
変な嘘をつく自分が情けなかった。
嘘をつかなきゃいけない理由が次から次へと生まれる。
早く1階に着けと願えば願うほど、エレベーターの速度が緩くなる気がした。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
1138 / 1234