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58.教えられないこともある
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「慧。お前それって……」
少しの間を置いて拓海が口を開いた。けれどそれは、すぐさま閉ざされることになる。
「お前、最近何か恐怖体験でもした?階段から落ちたとか、転んだとか」
スマホ片手に歩が訊ねてくる。いきなり何かとは思ったけれど、あまりにも歩の雰囲気が普通だったから、俺もそのままを答えることにした。
「そういえばこの前、駅の階段で滑って踏み外した」
「それだな。人って予想外の恐怖を感じた時、それが脳みそのどこかに記憶されて……詳しくは忘れたけど、無意識に怖いって感じさせるらしい。それじゃねぇの」
「そうか?でも踏み外したって言っても、特に危ないことはなかったんだけど」
「あとは体調とか疲れとかも関係するらしいし。そのうち治まるから気にするな」
俺と会話しながらスマホをいじっていた歩が立ち上がる。いきなりの行動に拓海と2人揃って首を傾げると、歩が顎で店の外を指す。
「そろそろ行くぞ」
「え?!これから晩飯食べるんじゃねぇの?俺、今日は外で食べてくるって言ったから家に何もないんだけど。慧と違って、いつでも飯作ってくれる頭のおかしな彼氏がいるわけでもないし!」
すかさず言い返した拓海に、反応したのは俺だ。
「おい拓海、その頭のおかしな彼氏って誰のことだよ」
「慧の彼氏つったら、この世界に1人しかいないじゃん。リカちゃん先生つったら頭がおかしいことで有名だろ?」
拓海はリカちゃんのことをよく知っていて、だからこそ頭がおかしいって言うわけで。と言うか、そもそもこんな人前で、彼氏だなんて言うべきではないわけで……。
ダメだ。どこからツッコミを入れたらいいのかわからない。
「拓海。心配しなくても飯ならちゃんと食わせてやる」
テーブルの横に立ち、今すぐにでも歩きだしそうな歩が言う。渋々ながらも立ち上がった拓海は、頭を掻きながら口を尖らせた。
「すっげぇハンバーグの気分だったのに……歩のことだからラーメンなんだろ、どうせ!」
「そんなに食いたいならハンバーグ何でも頼めよ。本人に直接言いづらきゃ慧に言わせろ。慧のお願いなら喜んで作るから」
「ん?慧のお願いならってことは、もしかして今日の晩飯は……」
急に友達を連れて帰っても怒らず、俺がお願いすればこんな時間でも全員分の飯を作ってくれる人。そして、それができる人。
うん。改めて考えてみても、あいつはおかしなやつだ。
テーブルに置いてあった伝票を歩が手に取る。だからといってケチな歩が奢ってくれるわけはなく、それを俺に押し付けてきた。
間近で微笑む歩の顔は男前だ。すっかり大人になって、学生の時とは少し違う。でも歩は歩で、その中身は変わらない。
「慧を家まで送る代わりに、兄貴が晩飯を作るらしい。ってことで慧、ここはお前の奢りな」
「なんで?リカちゃんが飯作るなら、俺が2人に奢る意味がわかんないんだけど」
「お前はバカか?送るってことはお前の家まで行って、そこから帰らなきゃなんねぇんだよ。行きと帰りで謝礼2つ分あるだろうが。俺は死んでもタダ働きはしない主義だ」
歩が言うにはマンションまで行くのが1つ目。マンションから帰るのに2つ目。つまり2回分の礼を払えってことで。それをリカちゃんが作る夕飯と、俺がここを奢ることで補え……らしい。
なんて歩らしい主張だろう。強引で傲慢だ。
けれど、そんな歩に俺が敵わないのはわかってる。2人のドリンクバーの料金は、電車賃を奢ってやったと思えばいい。そう自分を納得させた。
そして、疲れたからタクシーに乗ろうとする歩を殴って、電車で帰ってきたマンション。エントランスで目にした人物に、タクシーを選ばなかったことを後悔した。
前には階段を使わなかったことを。そして今回は、数千円の支払いをしなかったことを。
悔やんでも仕方ないけれど、なんて運が悪いんだ。
「おかえり慧くん。今日はお友達とお出かけしてたの?」
ちょうどエレベーターから降りてきたのだろう。前に会った時と同じように、蛇光さんが優しく笑う。いつもと同じように綺麗な服を着て、綺麗な髪型で、綺麗な手を振って。
いつもと今日で違うのは匂いだけ。それは化粧品の匂いでもなく、初めて会った時の花のそれでもない。
蛇光さんから香るバニラの甘い匂いに、その場から動けなくなる。
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