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88. VSヒトヅマ①《side:Rika》
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いつの間にか時計の針は進んでいて、さすがにこのまま続けるのは慧の為にも良くないだろう。待たせたきりの桃に視線を投げると、こっちを見るなと手を振って合図された。さっさと済ませろ、の指示に軽く頷く。
「すみません、もう行きますね」
体勢の崩れた慧を抱えなおし、頬にかかる髪を払ってやる。すると少しだけ慧の口元が緩んで、俺の方まで気が抜けそうになる。
そして実際に抜けてしまったのだろう。
「あのっ!」
掛けられた声に合わせ、腕を引かれて身体が傾いた。見るとそこには俺の服を掴み、自分の方へと引き寄せる女の姿がある。
ちゃっかり慧のモノで汚れた箇所には触れないよう、彼女は安全な角度に立っていた。
思わず舌打ちが出てしまう。
「……ッ、蛇光さん。この状況で引っぱるなんて、何を考えてるんですか?もし落としでもしたら、慧が怪我をするかもしれないのに」
人を抱えているというのに、この女は考えがないのだろうか。それとも、慧なら落ちても構わないと思っているのかもしれない。
腹の底から湧いてくるこの嫌悪感に、どう蓋をすればいいのだろう。噛み締めた奥歯がギリリと鳴る程、苛立ちが止まない。
それなのに馬鹿な女は続ける。
「あの!こんな時になんですが、前に言っていたスピーチ原稿はいつ見てもらえますか?」
「は?それはお断りしたはずですが」
「でも秘密にしてれば良いって……」
「秘密ごとは好きでも、あなたと秘密を共有するつもりはありません」
まだ掴まれたままの腕に目を向ける。そこと蛇光さんを順番に見て言うのは、
「痛めた割に随分と力がこもってますね、その手」
涙ぐんでまで痛いと訴えてきた手。慧のせいじゃないと言いながらも、暗に俺に責任をとれと言ってきた手。
汚い女の汚い手。
「それだけ治りが早いってことは、俺が渡した薬がよく効いたみたいですね」
「えっ……ああ、おかげですごく楽になりました」
ふんわり笑った女が「さすが獅子原さんです」と続ける。俺はそれを否定するでも肯定するでもなく、受け流した。
「それは良かったです。実はあの軟膏、中身はただの保湿剤なんですよ。全く腫れてもいなかったので……ほら、病は気からって言いますし」
痛い、痛いと眉を顰めていた手首。やたらと気にする素振りを見せていた怪我が偽物だってこと、そんなものすぐに分かる。分かっていながらも心配する演技に、俺がどれだけ笑いを堪えていたか……。
正直、何度吹き出しそうになったかは数え知れないぐらいだ。
「蛇光さんに何も言わず、勝手なことをしてすみません。でも、無駄な薬は必要ないでしょう?」
「え、あ……やだ。獅子原さんは意外と意地悪なところもあるって、覚えておきます」
「そうですね。それを言うなら俺も意外でした。嘘がつけないって豪語する蛇光さんが、怪我しただなんて嘘をついたんですから」
咄嗟に腕を隠した蛇光に続けて言う。
「嘘つきは針千本飲まなきゃ駄目なんですよ」
「あ…………そう、ですね」
「余計なことでしたね。俺は好きな人以外にはどうも否定的になってしまう性格で」
胸に抱えた慧の睫毛が揺れたけれど、目を覚ます様子はない。本当は本人に向けての言葉なのだけれど……それはまたの楽しみにしようと、目の前の女に微笑みかける。
「好きな人なら全て許せるんですけどね。例えば……そうだな、嘔吐したものを身体で受け止めるとか」
「……え、え?」
「例えばの話ですよ。何でも本気にするほど、もう子供じゃないでしょう?」
軽く会釈をしてその場を去れば、背後に感じるのは強い視線だ。けれど彼女のそれよりも強いものが、今度は隣から降り注ぐ。
乗り込んだエレベーターの中。ずっと沈黙を守ってきた大熊桃太郎が口を開いた。
「とりあえず……今すぐそのご自慢の顔をぶん殴ってもいいかしら?」
満面の笑みで拳を握りながら。
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