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128.その声
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不意に、名前を呼ばれる声が聞こえた。けれど振り返ると姿はなくて、目を伏せて玄関を出る。
いつも通りに朝食は用意したし、もし必要ならばと頭痛薬もテーブルに置いてきた。目覚ましのアラームもセットはしたけれど、きっと慧はそれだけじゃ起きないだろう。
誰かに電話して、起こしてもらうべきだろうか。それならば誰が適任だろうか……そこまで考えて、不意に笑ってしまう。
無理に日常を続けようとする自分に。無意識に毎日を繰り返す、そんな自分に。
「こういうところが駄目なんだろうな」
自画自賛になるけれど、俺の今朝の行動は100点だと思う。
バランスのとれた食事、綺麗に整理整頓された部屋。寝坊させないための根回し。それをさすがだと笑ってくれた慧は、今はもういない。
きっと起きたと同時に、あの子は息苦しさを感じるのだろう。
この間まで喜んでくれていたことが、今は相手を困らせる。俺のする全ての行動が、慧を追い詰める。かと言って何もしなければ、それはそれで『見限られた』と思わせるかもしれない。
言葉も態度も通じない時、人はどうやって気持ちを繋げるのだろうか。
「あー……っくそ。過去の自分をぶん殴りたい」
後悔ばかりの独り言を零したと同時に、隣の部屋の扉が開く。そこから出てきた桃が俺を見て首を傾げた。
「ねぇ。空気とお喋りするのって楽しい?」
「…………うっぜぇ」
「ええ?!まさかの朝から雄ってるの?やだぁ……。辛気臭い男の顔を見せられて、あたしの運まで落ちちゃったらどうしてくれんのよ」
つかつかと歩いてきて俺の隣に立った桃は、じっとこちらを見つめる。
「どうせ、まーたウサギちゃん関係でしょ?元気出しなさいよ。長く一緒にいれば、色んなことがあって当然なんだから」
「色んなことと言うか……いつも似たようなことだけどな」
「それはリカの力不足ね。人間らしくていいじゃない」
あっけらかんと笑う桃に、それどころじゃないと言っても相手にされない。されないだけではなく、余計に笑われる始末だ。
「ほーんと、人間関係は昔から不器用なんだから。あんたは難しく考えすぎなのよ」
「うるさい。変に意地を張ってフラれた上に、上手いこと言い寄ってくる上司について行って、自分を鞭打ちしてくれって頼まれたオカマに言われたくない」
「やめて!!あれは、あたしの黒歴史トップ3に入るの!まさか自分の上司がドMの調教されたい願望を拗らせた男だなんて思わないでしょう?!」
「そもそも、ついて行く方がどうかしてるだろ」
「うっ……それは反省してるわ。豊にも怒られたもの」
先へ促すようにしてくる桃に従い歩みを進めれば、やっぱり後ろから声が聞こえた。けれど玄関の扉は閉じたままで、またの幻聴に胸が痛くなる。
「慧君、行ってきます」
受け取ってもらえない言葉をかけると、前を歩いていた桃が立ち止まる。けれど首を振って何も言わない俺に、困ったように笑うだけだ。
「リカ、せっかくだから事務所まで送ってよ」
「なんで俺がお前の運転手をやらなきゃ駄目なんだよ。ふざけんな」
「あらやだ。そんな風に強気に言われると、なんだか悶えちゃう」
「黙れオカマ。お前を喜ばすぐらいなら、その辺の野良ウサギと喋る方がいい」
「残念ながら野良のウサギは街中にはいないと思うわよ。いるのは、そうねぇ…………」
駐車場の入口付近で2人、立ち止まる。
そろそろ買い換えようかと思っている黒の愛車の傍に立つ人影に、同時にため息を零した。
「ウサギの代わりに別の生き物がいたわね。それも天敵が」
前を見据えたまま、桃が続ける。
「リカちゃん、あんたと一緒にいると運気は最悪ね。今日は有休とって、このままお祓いにでも行きなさいよ。いい神社を紹介してあげるから」
「あー……でも考えようによっては最高じゃないか?だって、これ以上に嫌なことは起こりようがないだろ」
「それもそうね。どうしてかしら……あたし、あの女を見ると、仕事で携わる人間関係のいざこざがすごく可愛らしいものに思えるの。まるで子供同士の喧嘩みたいに」
「奇遇だな。俺もあの女を見ると、教頭のクソみたいな自慢話が、オルゴールの音色に聞こえるんだよ」
2人で淡々と会話しながら近づいた先。俺たちに気づいた『あの女』がこちらに向けて微笑んだ。
「おはようございます、獅子原さん」
呼ばれたのは俺の名前だけで、隣の桃が嬉しそうにガッツポーズをした。
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