アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
105
-
余計なことを考えないよう、仕事に没頭し時間を忘れる。気づけば時計の短針は頂点を越えていて、疲れた瞳を休めるために眉間を押さえた。
熱めのシャワーを浴びても、積もった負の感情は流し落とせない。それでも向かう先は1つしかなく、明かりの漏れる扉の前に立つ。
ゆっくりと開けたその向こうには、求めているのとは違う黒い頭が見えた。
「あ……」
「まだ起きてたんだ?」
ソファに座って本を読んでいたらしい鹿賀がこちらを見る。それは俺があげた本で、見るに残り半分を切るほど読み進めているようだった。
「汗かいて気持ち悪くて。もう熱も下がったし、シャワーぐらいなら大丈夫ですか?」
「……いいんじゃない。入りたいなら入れば」
自分でもその返答に呆れてしまう。声をかける先の相手が違えば、言葉はこうも冷たく凍りつくのだと実感した。
「じゃあ入ってきます」
着替えを持った鹿賀が浴室へと消えた。すぐに水飛沫の音が聞こえ、1人リビングで煙草に手を伸ばす。けれど他人の体温が残るソファに座りたくはなくて、ベランダの扉に手をかけた。
風に揺られる服。鹿賀が洗濯したらしいそれらに、取り繕った笑顔が消える。
殆ど吸っていない煙草を消すと、等間隔にかけられた洗濯物を取り込む。まだ乾ききっていない塊を、再び洗濯機の中へと押し込んだ。
他人が洗ったものなんて着る気になれない。だから、この行動は仕方のないことで避けられないこと。そう自分に言い聞かせて蓋を閉じる。
キッチンには鹿賀が作った夕飯が出番を待っていた。すっかり冷めてしまったそれは、俺の目には毒物のように映る。
どんどん腐って、溶けて、害を成すものに変わっていく。
生ごみ用のゴミ箱へと真っ逆さまに落とすと、自分の中でまた何かが崩れた音がした。ひびが入ったのではなく、崩れてしまったら元に戻すことはできない。
静まり返ったリビング。何の音もしない、1人きりの空間。
「先生、そんなところに立ってどうかしましたか?」
風呂上りの鹿賀は、さっぱりとした顔をして俺を見上げる。数日前まではあった牙を潜め、穏やかさを含んだ瞳に理由の見つからない笑みが零れた。
「いや、別に何もないよ」
「それならいいですけど……あ、夕飯食べました?まだなら温め直します」
「そのことなんだけどさ。悪いんだけど」
一旦区切ると、続きを待つ鹿賀が瞬く。それに向かって得意の作り笑顔を張り付けた。
優しそうだと言われたこともある。喜怒哀楽がわかりづらいと言われたこともある。けれど、本当の俺は単純で狡猾で、そして臆病だ。
「俺、他人の作ったものとか触ったもの苦手なんだよ。これからは俺のものに触れないでくれない?」
できるだけ優しく告げると、鹿賀が首を傾げた。
「それって潔癖症のようなものですか?でも、慧くんは平気なんじゃ……」
「だから他人のって言ってるだろ。この意味、お前なら理解できると思うんだけどね」
戸惑った鹿賀の黒い瞳が揺れる。善良な教師なら、生徒を不安にさせるような事を言うのは許されない。けれど、自制も理性も本来はとても脆いものだ。
黙る鹿賀の前に立ち、笑む。微笑みではない冷笑に鹿賀が唇を噛んだ。
「俺のものに触るな、俺のものを気安く呼ぶな。ここに居たいなら、それは守って」
「僕は先生の生徒なのに…それなのに駄目なんですか?」
問いかけてくる鹿賀を数秒見つめ、首を縦に振る。どうして、と紡いだ唇が歪んでも、全く罪悪感を感じ得ないのは、どこか壊れてしまっているからだろうか。
「だって、お前は他人だから。俺はそこまで面倒見がいいわけじゃない」
「でも!先生は僕と約束してくれたじゃないですか!」
初めて鹿賀が口調を荒らげた。そんなことを冷静に考えながらも、口が勝手に動く。
「だからって何をしてもいいわけじゃない。俺はお前のものじゃないんだから、言いなりにはならない」
言い捨てて寝室へ入れば、扉の向こうで鹿賀がどんな顔をしているかわからない。それが良かった。
ベッドでは既にウサギが寝息を立てていて、その隣に滑りこみ腕を回す。すり寄ってくる温もりに、やっと頭の中で響いていた音が止んだ。
瞼を閉じれば嫌なものは見えない。見たくないものを排除できる束の間の休息に、疲れた身体が意識を手放そうとする。
けれど次にまた開いたら。
その時は、目の前に黒一色の暗闇が広がっているのかもしれない。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
922 / 1234