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46.嘘つきと正直者
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俺は蛇光さんに嘘は言っていない。けれど、本当のことでもない。
だってリカちゃんは、パンも米も好き嫌いなく食べる。どちらが好きかなんて、俺すら知らないぐらいだ。
だからだろうか。内心に少しの罪悪感があるのは。卑怯な返事をしたから神様は、俺に罰を与えたんだろうか。
「あっ、獅子原さん!」
エレベーターが1階に着き、エントランスに出た蛇光さんがその名前を呼んだ。俺の周りじゃ誰も呼ばない、リカちゃんの名前を。
このマンションにどんな名前の人が住んでいるのかは知らないけれど、獅子原だなんてありふれてはいないそれの持ち主は、もちろん1人で。
「蛇光さん、こんにちは。あれ……慧君?」
聞き慣れた声が聞き慣れない挨拶を返したかと思えば、その後に聞き慣れた俺の名前が続く。
ちょうどマンションの中へと入ったばかりだったリカちゃんが、俺と蛇光さんを見て首を傾げた。
「蛇光さんと慧君だなんて、珍しい組み合わせですね」
リカちゃんのその言葉の意味は『どうしてお前たちが一緒にいるのか』だ。女嫌いで人嫌い、そしてもちろん人見知りの俺が蛇光さんと一緒にいることが、どうやら不思議で仕方ないらしい。
「たまたま……だから。エレベーターが一緒になって、ほんとに偶然で」
最後は早口になりつつ答えたのが俺で。
「そうなんです!実は慧くんに、獅子原さんのこと教えてもらってて。まさか本人に会えるなんて」
バカ正直に報告したのが蛇光さん。
「俺のこと?それは、どうして?」
リカちゃんが俺と蛇光さんのどちらに訊ねたのか、俺にはわからなかった。適当にごまかした自分の卑怯さをリカちゃんに知られたくなくて、必死だったからだ。
「慧君?」
そんな俺をリカちゃんは見過ごさない。俺の変化を瞬時に見抜いて、真っ直ぐに見つめてくる。
「慧く──」
「獅子原さんって、パンよりお米派なんですよね!実はあたしも同じで、やっぱり獅子原さんとは気が合うなーって慧くんと話してたんです。ねっ、慧くん」
リカちゃんを遮って蛇光さんが答えれば、当然視線は俺に向けられて。
正面から射るように注がれるその強さに、思わず背けた首が歪な音を立てた。
「慧君、本当にそんな話を?」
どうして確認するんだ。
俺が本当にそんなことを言ってたら、それがどうだって言うんだ。蛇光さんと気が合ったら、それが何だっていうんだよ。
そもそも俺は、蛇光さんとそんな風な話はしてない。パンより米派だって、嘘でも本当でもない適当な返事をしただけだ。
「それは……」
リカちゃんに返すべき言葉が見つからなくて、言い淀む。
あれは、たいした会話じゃなかったはずなのに、そこには大きな意味があるように思えた。この返答次第で、何かが変わるんじゃないかと思うような……何か言葉にできない雰囲気を感じた。
そして、だから俺は。
「っ……悪い。俺、今日は用事があって急いでるから!」
俺は素直な正直者にはなれない。けれどそれと同時に、適当に話を合わせる嘘つきにもなれなかった。だから逃げるしかできない。
どちらかを選んで何かが変わることを怖がる。そんな優柔不断な性格は、今も昔も同じだ。だってこれが俺で、そんな俺をリカちゃんは今まで許してくれてきた。
でも、明日は?明後日は、1年後は?
運動なんてマトモにしていない身体が悲鳴をあげる。不安で仕方ない心が、その声を倍増させる。
頭に響く。喜ぶ蛇光さんの笑い声が。リカちゃんと会えて嬉しそうな、あの女の声が。
返事を返すリカちゃんの声が。
全てをかき消すように耳を抑えても、脳内に流れるあの女の声が消えない。瞼にこびりついた笑顔が消えてくれない。
もう今の俺に走る気力なんて残ってはいなかった。
全く成長できていない自分を悔やみながら歩く道のりは、いつもよりも何倍も遠く感じた。
目的の場所は、俺には遠すぎる。
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