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へし折った飴細工 ep.5にしおりをはさみました!
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へし折った飴細工 ep.5
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「悪いね。買い出しにつき合わせてしまって 」
春日は、ショッピングカートを押しながら、申し訳なさそうな顔をした。
無愛想な男だと思ってはいたが、どうやらそうではないらしい。形の良い眉毛をちょこん、と下げて小首を傾げる様は、飼い犬のような人懐っこさがある。
「いえ、別に構いませんよ 」
「同居人が……君の兄弟が煮込みハンバーグを食べたがっているらしくって 」
困ったような顔をしながらも、目の奥の陽だまりが絶えずヒユウを照らしていた。そんな瞳に魅せられて、きゅうきゅうと胸を締め付けていた闇の糸が解れていくのは、これで2度目の感覚である。
筋張った早老の掌に乗る包み込まれた両手が、強張った胸を溶かすように、春の日差しにも似た目が、1人で震える心に優しさの衣を幾重にも重ねてくれた。彼らには人知を超えた特別な力があるのではないかと疑うほどである。心に訴えかけるなにかが。
実のところ、ヒユウは現状を現実として受け入れられていなかった。現世は夢、夜の夢こそまこと。そんな文句に導かれて迷い込んだ現世の夢であるのではないか。というのも、 些か妙な点がヒユウを捕らえて離さないからである。しかもその妙な点というのは、例えば、何故自分が彼らに連れ去られているのか、近所の公園にいたはずなのに、ものの10分で見知らぬ土地の風景を見ていること、などといった、ちっとも理屈ではかたがつかないものであった。
だからこそ、ヒユウがこの状況を受け入れているのであり、それが現実としてでなくとも、現状として自分を納得させている。
いつかこの夢は覚めてしまうのだろうか。
そんな思いすら芽生えてくるのも、夢であるからだろうか。
「君は強いね 」
春日は、ヒユウの頭に大きな掌をかぶせた。彼が大きな体躯を軽く曲げるので、ちょうど鼻先がぶつかるくらいの距離と高さになる。
「俺と姫谷が父さんに出会ったばかりの頃は、誰とも目を合わせられる状態じゃなかったよ。姫谷はひどく憔悴しきっていたし、俺は姫谷にしか気が回っていなかった。自分たちの生活が一変しつつある事なんて、気づきもしなかった。ただただ煉羊羹の濃やかに淀んだ色彩ばかりが、俺たちの周りを包んでいた 」
春日の声は確かに悲哀を含んでいたが、その表情はどこかうっとりと異世界を臨んでいた。自らが愛読する小説の一部を自分語りの援用にするくらいには、気分が良いらしい。
「火星の運河ですか 」
江戸川乱歩の作品である。彼は頭の中を果てない森へ置いてきているようである。恐らくは、無意識に。
彼もまた、狂人なのやもしれぬ。うっそりとした目つきは、自分への陶酔の表れだ。ヒユウを励ますように見せかけて、其の実自分語りをしたいだけのように思える。それも、表現世界なんていうあまりに曖昧で星のように遠い遠い世界の話なのだ。
我々はその種の人間を往々にして目にするが、春日ほどロマンチックな男はいないだろう。彼は自分の想像世界(それが他人によって想像された世界、つまり既存の物語の世界であっても)に常に入り浸らずにはいられないのだ。先ほどヒユウが車内で見ていた春日もそれに違わぬ。無口でクールな男という像に自分を押し込めていたのである。とりわけ彼が得意としているのは「落ち着きのある兄貴分」であって、普段はそこに落ち着いているのだが。
芝居掛かった口調の姫谷と、百面相の春日の2人をよく知るマナビは「まるでミュージカルと黙劇をいっぺんに見ているようだ 」と評している。
閑話休題。
自らの「台詞」のパロディが通じたことに気を良くした春日は、それからもヒユウを甲斐甲斐しく面倒見た。挙句には
「不安だろう」
とヒユウの手を握って、店内を移動する始末だ。ヒユウにとって、この春日の「なりきり体質」へは別段思うところはなく、寧ろ車内で感じていた「とっつきにくさ」というものが薄れたことにすっかり安心するところとなるのである。第一、春日から『強い』とひょうされていても、ヒユウには他人の性格を見破ることができるほど、心に余裕はなかったわけだが……
春日の大きな手のひらは、陽だまりのように暖かだった。繋がった右手だけではない。体全体、心全部を優しく抱きしめられているような心地である。それはまるで母胎を想起させ(尤も、母胎にいた記憶なんて毛ほども残ってはいないのだが、胎内というのはこんな気分にさせるのだろうということだ)、体の奥からぐずぐずに溶けていく気分にさえなった。ヒユウが春日にすっかりと心を委ねたのはいうまでもない。
「今日は君が我が家に来る記念日だ。何か好きなものを言ってごらん。買ってあげよう 」
じゃあ、と言ってヒユウが手に取ったのは素朴なキャラメルであった。春日はもっと別なもの、もう少し特別なものを買い与えたかったのだが、彼には小っぽけな箱が良かったらしい。ヒユウからしてみると、現世の夢に溺れているかもしれない今、素朴な味こそが現世に存在している証明なのであった。
結局、春日は店を出るときもヒユウの手を握ったままであった。姫手は彼らを見て意地の悪い笑みを浮かべつつも、迎えの挨拶を寄越してくれた。
ヒユウたちが買い物をしている間に、姫谷と与惣の2人は何か相談事をしていたのだろうか。彼らがヒユウたちを見つけるまでは顰め面を決め込み、言葉少なに会話をしていたようである。更に、2人は運転席と助手席へと座り直していた。
「遅くなりました 」
助手席の窓をノックする春日は、「先ほど」の無口な青年に戻っていた。ヒユウは人格の変化に気付くわけでもなく、ただ、与惣には厳格な態度で接するべきであるという意識を感じ取ったまでであった。以降、ヒユウが与惣を相手取った時に、背筋が自然と伸びてしまうのは、あながち春日のこの態度にあるだろう。
助手席の与惣は、温かな笑みを2人に送りながらも後ろの席へ座るように促した。
「いえ、父さんを助手席に座らせるわけには……それに姫谷の運転とあれば尚更 」
「なによ。私の技能に文句がおあり? 」
姫谷の文句を口一文字にはねっ返す様に、与惣は笑い皺を一層深くする。
「私のことは気にしなくていいよ。ヒユウ君は君が隣にいた方がいいんじゃないかな。随分と君に心を許しているようだ 」
結局、ヒユウは何もかもを聞けずじまいであった。どうして自分が与惣に拾われたのか。なぜ、与惣に拾われた者たちは同じ家に住んでいるのか。見知った景色が途端に見知らぬ顔を見せたのか。与惣とはいかなる人物なのか。
頭に浮かんでは、また次の疑問が浮かび上がってくるのは、まるでマグマのようであり、しかし、マグマよりもずっと冷えた……砂漠の月のようであった。だだっ広い荒野に理性だけが置いてけぼりにされているようだった。
繋がった右手は温かい。心も温かい。しかし、頭の奥の方がしん……と冷えていた。
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