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16にしおりをはさみました!
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16
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退院する前に、圭吾の病室へひとりで見舞いに行った。
そこにはたまたま誰もおらず、眠る彼の顔をベッドの横から覗き込んだ。
顔色は青白く、呼吸が浅くて、まるで眠るように死んでいるみたいだった。
気づいたら涙が零れていた。たぶん、親友だと身体が覚えていたので、彼のそんな姿に胸が痛んだのだ。
頬に触れてみて、温かさにほっとした。それと同時に、手のひらが彼の肌にやたらと馴染んでいるような、不思議な感覚がした。
呼びかけてみようかと思った時、看護婦が現れたので、邪魔をしては悪いと思い病室を出た。
後ろから誰かがぶつかってきて、意識が現実に戻る。
「おい、ぼさっと突っ立ってんな!」と、怒鳴られて幸樹は、信号を確認。青だったので交差点を渡った。
道端に列植されている桜は花を落とし、葉を茂らせている。梅雨の時期はすぐそこまできていた。
「携帯電話さえ無事だったら」どれだけ楽に情報を収集できただろうか。
それは車に弾き飛ばされ、データがすべて吹き飛んでいた。メールアドレスと電話番号を変えずに新しい機種を買ったのだが、連絡はろくに入らなかった。それだけ友人が少ないということだ。
両親は、美加をこちらの交際相手として扱っていた。聞くと、どうやら事故の少し前から復縁していたようだった。復縁ということは、一度は別れていたはずだ。それなのにどうしてまた交際を始めたのか疑問を抱いた。しかし失われた記憶の中で、傍に誰かがいたような気がしていたから、それが美加だと言われると否定はできなかった。何より、もしも他に交際相手がいたとすれば、その誰か、から連絡がきているはず。電話もメールもなかったことから、幸樹は両親と美加を信じた。
人生とは、歩む道の中で、何が起こるのかわからないものである。幸樹は一度だけ、美加を抱いた。スキンをつけていたし、精も吐かなかったはずだ。肉杭は反応をせず、どうにか挿入できても、まったく役に立たなかった。これは違う、と脳の中で何かのパルスがちかちかと瞬いた。しかし結果、美加は妊娠をした。先走る滴りだけでも妊娠することがあると知り、幸樹は責任をとるため結婚したのだ。
足取りが重い。こんなことを考えてはいけないとわかっているけれど、妻や子供に対して愛情が芽生えなかった。生まれてきた子供は確かに可愛い。無邪気な笑顔を向けられると、意識せず笑みを返してしまう。しかし、それでも、何だかままごとをしているような気分だった。与えられた役目を演じるだけの人生に思えて、自宅に帰ることがどうにも億劫でならないが、帰りを遅くすると美加が情緒不安定になり、その牙が子供に向く恐れがあるため、酒の誘いなどはできる限り断っている。
二階建ての中古住宅は、義理の両親が結婚祝いだと用意してくれた。小さな庭がついていて、そこには今、色とりどりの薔薇が咲いている。
幸樹は玄関の鍵を開け、中に入った。
「ただいま」
「おかえりなさい!」奥から美加が現れた。薄桃色のエプロンをつけているので、キッチンにいたのだろう。
「お風呂、用意してあるよ。そうそう、今日は美樹ちゃんがぐずってぐずって、大変だったの。手を洗ったら抱っこしてあげて」
幸樹は持っていた鞄を美加に預け、洗面所に向かった。
手を洗うついでに顔も洗う。タオルで水気を拭う前に鏡を見た。
「おまえは誰だ」と呟く。「誰なんだ」
いつになったら記憶が戻るのだろうか。記憶が戻る保障はないと医師から聞いているものの、希望は捨てられない。自分の芯がないような感覚は、とても気持ちが悪いものだ。
うがいもし、洗面所からリビングへ移動した。薄手のカーペットに転がっている美樹は、キリンの玩具をしゃぶっている。
「よしよし。ほら、抱っこしてやるぞ」幸樹はスーツの上を脱いで、美樹を脇から抱き上げた。
そこで、オムツがぱんぱんに膨らんでいることに気づく。ポリエステル素材でできたオムツ換えシートを、カーペットに敷いた。そこへ美樹を寝かせ、オムツの中をそうっと覗いてみたら、汚物が溜まっていた。
「……またか」ため息が出る。美樹の尻は少し赤くなっており、肌が荒れている。
「おおい。病院へは連れて行ったのか」キッチンへ向けて声を放った。返事はない。
幸樹は美樹の尻をおしりふきで綺麗に拭い、ベビーワセリンを薄く塗ってから新たなオムツをはかせた。
「俺がしっかりしないとな」自分に言い聞かせるよう呟いた。
家事はしっかりこなすのに、どうして美加は子供の世話をおざなりにするのだろうか。育児に参加しているけれど、専業主婦である美加とは違い、出勤している間はどうしても子供を見てやれない。ずっと家にいるのだからおまえがしっかり見ておけよ、とは、今の世で言えることでもないし、幸樹自身、母親だけが育児をするものだとは思っていない。ひとりで世話をするのは大変だろうが、これではさすがに美樹が可哀想だ。
抱っこをしてやると、美樹は顔をくしゃくしゃに顰めて声もなく笑う。可愛いなと思った。けれど、けれど……
「ほら、鏡を見に行くか」と、美樹を抱っこしたまま洗面所に向かう。子供は鏡が好きなのだと、ベビー雑誌を読んで知っている。
洗面所の鏡に映った自分たちの姿。
ああ、似ていない。
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