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第3話にしおりをはさみました!
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第3話
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月曜日の十九時を回ったところだった。享がその日のレッスンを終えて、一人台所で夕食の準備を始めようとしていると玄関のインターホンが鳴った。
「こんな時間に誰だ?」
生徒が何か忘れ物でもしていったのだろうかと思いながらインターホンに出ると若い男の声がする。
駅前のカフェのチラシを見て来た、と言われて、享が恐る恐る玄関の戸を開けると、背の高いスーツ姿の男が立っていた。歳は自分と変わらないかもしれない。
「今晩は。すみません、こんな時間にお邪魔して」
男は軽く頭を下げた。だが、さりげないその所作が実に折り目正しく美しかった。着ているものや手に持ったビジネス用のバッグ等も高級な感じだ。更に言えば、その男自身も鼻筋が通った端正な顔立ちの相当なイケメンでスタイルがいい。高そうなスーツや靴などが嫌みなほど似合って様になっている。
「ピアノの先生をされているのはあなたですか。駅前のKOZAWAさんでチラシを見て伺ったのですが」
張りのある声で、てきぱきと感じよく話す。いかにも仕事の出来そうな高給取りのサラリーマンといった印象だ。サラリーマンとしてはてんでダメだった享が一番見たくない類の男である。目を合わせるのも気が引けて、つい俯きがちになってしまう。
「はい…僕ですけど…ご用件は」
「私…えっと、仕事じゃないから俺でいいかな。この近辺は仕事で回ってまして…神崎優留っていいます」
男が微笑んで差し出した名刺を見て、享の顔色が変わった。
「あの、車なんて買えませんから!お引き取り願えませんか」
「営業で来たんじゃありません。ピアノのレッスンを受けたくて」
「…あなたが?」
享は未だ眉をひそめて疑いの様相である。
「はい」
一切売り込みの話はしません、と優留はにこやかに振る舞って享の不安を払拭しようと努めた。享も、神崎と名乗る男の名刺に印刷された某欧州の高級車メーカーの名前や、スーツの襟についたピンバッジを見て彼の言い分を理解した。確かに強引な営業をする会社ではなさそうだ。
「俺がピアノを習いたいって言ったらヘンでしょうか」
「あ、いえ、全くそんなわけじゃ…夜の時間帯でご希望ですよね。ピアノは…全く初めてですか?それとも習ったことがおありですか」
男性がレッスンを希望してくるとは考えてもみなかった。小学生の生徒なら三名ほど男子がいるが…。
享は優留に、レッスン室へ上がるよう勧めた。自分と同い年だという彼は感じもいいし勤め先も確かだ。家に上げても危険はないだろうと判断したのだった。優留は礼を言うと、きちんと靴を揃えて脱ぎ、会釈して上がった。
「失礼ですが…先生はこのお家にお一人で?」
前情報は得ていたが、優留はとぼけて聞いてみた。
「ええ、今は…両親は海外赴任中、姉が一人いますがこっちも国際結婚して外国で暮らしてます」
玄関を入ってすぐに右側が客間兼レッスン室だったが、グランドピアノと来客用の応接セットがギリギリで入る程度の広さだ。古い家の中で、この部屋だけは防音やピアノの重さに耐えるため壁や床を補強して板張りにして洋間の趣になっていたが、いずれにせよ楽譜を置く場所が余りないので、客室のすぐ奥にある享の自室に置かねばならない状態だった。
「狭くてすみません。ピアノがあるとどうしてもね…」
優留を三人がけのソファに案内すると、優留からピアノのレッスンを受けた年数や当時弾いていた曲等を聞き出した。
「なるほど、小学生の時に四年ほど習ってらしたんですね。だったら楽譜はお読みになれるから…ところで、神崎さんはどうしてまたピアノを弾きたいと思われたんですか」
「その…社会人になって丸三年過ぎたし、やっと落ち着いてきたんで何か趣味をと…営業は仕事の時間が不規則になりますから、一人でも楽しめることを始めようと思ったんです」
「ピアノはお持ちですか」
「電子ピアノを買いました」
電子ピアノは、楽器店の展示品を処分価格で手に入れた。まだ一昨日の土曜日に優留のアパートへ納品されたばかりだが、まさか楽器を買ってまでこのピアノ教室に来ようとは。
「本格的に練習されるつもりなんですね。じゃあ…何か弾いてみたい曲はありますか」
「うーん」
そこまで考えていなかった。優留はどう答えたものか一瞬迷ったが、ここは営業職ならではの口の上手さで誤魔化すしかない。
「正直、自分のレベルで何が弾けるのかさっぱりわからなくて…あ、そうだ。先生に選んでもらおうかな」
優留は人懐こそうな笑顔を浮かべてソファに座ったまま身をかがめ、対面の一人がけの椅子に座る享の顔を覗き込むようにして見つめた。突然のことに驚いたのか、享が少し身をすくませたのを、可愛い…と優留は思った。向き合って見るとやはり綺麗な顔だ。睫毛が長くて…化粧のせいで一様に小奇麗だが誰を見ても同じ顔に見える職場の女性社員よりも、こっちの方が見飽きない気がする。
「じゃあ…どんな感じの曲が好きとか、漠然とイメージだけでも教えて下さい」
「ロマンティック過ぎないのがいいです…能天気なのも嫌かな」
思いつきで適当に答えてみた。
「難しいことを言う…」
享は唇を尖らせた。
そして客間の奥、ピアノの鍵盤側の背後にある襖代わりの引き戸を開けて自室へ入り、何冊かの楽譜を持ってきた。客間のテーブルの上に置いた楽譜をめくりながら、優留のレベルに合いそうな曲を探す。
「すみません。弾けもしないのに生意気なこと言って」
「いえ…構いません。ご自分が本当に弾きたいと思う曲じゃないと続かないから」
少し考え込んだのち、享は一冊の楽譜を手にとって立ち上がった。そのままピアノの前へ行って椅子に座ると、譜面台に持っていた楽譜を置いて優留を振り返った。
「バッハの二声…インヴェンションはどうですか?弾いたことありますか?」
「いや、ないです」
「一、二曲弾いてみますね。えーと、どれがいいかな」
そうつぶやきながら享は譜面台に置いた楽譜をぱらぱらとめくっていたが、やがておもむろに演奏を始めた。
優留が子供の頃に通っていたピアノ教室で聞いた気がする曲だった。だが、あの頃はまともにピアノの練習を出来るような環境ではなかったから、レッスンに行くのは嫌で仕方なかった。他の生徒が弾く曲に興味を持ったこともない。思えば、間近で誰かがピアノを弾くのをちゃんと見たのは初めてのような気がする。
バッハの曲は機械仕掛けのようだ。特に盛り上がる場面もなく、規則正しく演奏が進んでいく。だが情感がないのかといえばそうでもない。
「どの曲も二ページで終わるので、気楽に取り組めると思いますよ」
曲の雰囲気自体は嫌いではなかった。優留としては元々何を弾きたいか等の拘りがある訳でもないし、勧められた曲を素直に、適当に練習してこればいいだけの話だ。
優留は毎週月曜日の十九時から一時間のレッスンを受けることにした。
練習曲はバッハのインヴェンションの四番になった。
平日は仕事に追われて優留がピアノに向かう時間は殆どない。だが、週末にまとめて練習して多少弾けるようになったとしても、練習しない日が数日続くとすぐに指が動かなくなる。
想像以上に厄介だ。
毎週レッスンに行っても前の週から殆ど進歩していないことが露呈するばかりで、当初はそんなに真面目にやる気がなかった優留も、流石に焦りを感じ始めた。そこで、とにかく毎日五分でも十分でも必ずピアノに向かって指を動かす習慣をつけることにした。ソファに寝転んでスマホやテレビのリモコンを手にする代わりに、ヘッドフォンをつけてとにかく電子ピアノの前に座るのだ。
するとテレビの前でダラダラするよりもピアノを練習する方が就寝前の疲労感が少なく、しかも気持ちよく眠れることがわかった。練習するのも楽しくなってきて、十分程度から二十分、三十分と時間が増えていった。
「あれ、急に上達されましたね」
二週間ほど継続して練習してきた辺りでようやくその成果が現れてきたようだ。所々で音を外したものの、優留がどうにか一曲を最後まで通して弾ききったのを見て、享は顔をほころばせた。
「すいません…やっとエンジンがかかってきたみたいです…どんなポンコツ車だよって」
「高級車売ってるのに」
あはは、と亨が声を立てて笑うのが、優留にはことの他嬉しく感じた。一線で仕事に赴く緊張感も楽しいが、亨のように仕事からかけ離れた人間と…ふんわり時間を過ごすのもいい。
思えば、今まで週末に一人でいる時以外に、これほど心穏やかに過ごせる時間はあっただろうか?亨とは言葉遣いに気をつける程度で、あとは何の気負いもなく会話ができる。
有益な人脈を作ることは好きで交流の場にも赴くし、プライベートの友人がいないわけでもないが、人の良し悪しに関わらず一様に競争心が強い連中ばかりだ。彼らに対してはどことなく気を張ってしまう。故に亨は優留が出会った中では異質な存在だった。彼には打てば響くような鋭さはないが、人の話をよく聞いて、訥々と…だが的を得た言葉を返してくる。
月曜日のレッスンは一時間程度で終わってしまうし、その後少し世間話をすることもあるが翌日の仕事のためにそれほど長い時間は過ごせない。もっと亨とゆっくり話す時間が欲しい。
「松波先生は、週末は予定とかあります?もし良かったら一度飲みに行きませんか」
つい、口に出してしまった。
「え…週末、僕はその、余り…飲めなくて」
亨は突然誘われたので面食らってしまった。返事はしたがまともな言葉になっていない気がする。
「大丈夫。ほんのちょっと、軽く、ですよ。あ、土日もレッスンがあるのかな」
「レッスンは土曜日の午前に二人だけ。あとは一応空いてますけど…」
彼は何故僕なんかを。亨は不思議でならなかった。もっと華やかな友人が大勢いるだろうに…と思って聞いてみたが、優留は笑って否定した。
「俺って、実は友達少ないんですよ。職場の連中と休みの日までつるむ気もないし」
「まさか。そんな風には見えないけど…でもすみません。今度の週末は両親が一時帰国しているので出られそうにないです」
「じゃあ、その次の週末はどう?」
執拗に聞いてくるところを見ると、社交辞令ではなく本当に自分を飲みに誘いたがっているようだ。
「空いてると…思います」
再来週の土曜の晩に会う約束を取り付けると、優留は上機嫌で帰って行った。
「…変な奴。女の子でも誘ったらいいのに」
玄関先で見送った亨はその場で呟いた。ああは言っていたが、彼なら引く手数多だろう。もしかしたらモテ過ぎて鬱陶しいから自己防衛しているのかもしれない。
亨はあれこれ理由を考えてみた。…そうでもしないと自分がいたたまれなかったからだ。
ちょっと飲みに誘われたくらいで…しかも相手は男性なのに。
付き合いが悪いために既に誰からも声をかけられなくなっていた亨には、本音では優留に誘われたことが嬉しくてたまらなかったのだ。
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