アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
38にしおりをはさみました!
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
- しおりがはさまれています
-
38
-
「どうしたらいいのか分からなくてさ…」
爽はそう言いながら雅が渡してくれたマグカップを受け取った。
合理的な雅は狭い1LDKにソファなど置いたりはしない。
作り付けのカウンターテーブルがあれば食事には事足りるので、座卓の類もない。
爽が頻繁に訪れるようになるまでは椅子も1脚しかなかったし、フローリングにラグなんて洒落たものは敷いていない。
ベッドも最初はロフトベッドにしようかと考えたのだが、体調が悪くなった時のことを考えてスタンダードなものにした。
雅の部屋は本当にシンプルだ。
だから今、爽は床に座って膝を抱えていて、それを見て雅は近いうちに座布団でも買うかと考えた。
ふっと吹いてから爽がジンジャーティーを一口飲む。
雅はその隣に腰を下ろした。
机と机にはさまれた細長い空間の一番低い場所に座るのは普段はやらない行動なので、視界が新鮮に感じる。
カウンターや椅子が大きく見え、日頃は視界に入らない机の天板の裏も見える。
子供の目線だと世界はこんななのかな―。
爽の隣で雅もジンジャーティーを一口飲んだ。
「小出が家に来て、俺は自分の感情が良く分からなかったんだよ。小出が玄関を入ってきた時、うまく言えないんだけど、違和感ていうか異物感ていうか、…なんかそんなものを感じたんだ」
「初めて来た人だし、お客さんだし、馴染んでないのは仕方ないんじゃないですか?」
「うん、そうなんだけどさ、もっと率直に言うと俺は“侵入された”って感じてたらしいんだ、どうやら…」
侵入とは穏やかじゃないな―。
雅は少々驚いたが何も言わずに続きを待った。
「智花はもういないのに、あの家にはまだ彼女がいて、どこかに隠れてるんじゃないかとか、夜になったら帰ってくるんじゃないかとか、そんなの有り得ないのは分かってるのに、そんな気がして、だから小出が来たのを智花は見てるんじゃないかなんて馬鹿なこと考えて…」
爽の家に雅はまだ入ったことがない。
自分より先に入れてもらえた小出が羨ましいと思う理由などないはずなのに、なぜだか妬むような気持ちが湧いてくる。
同時に爽と智花がどんな夫婦だったのか全く知らないことに雅は気付いた。
友人であれば知っているような類のなれそめや結婚式のエピソード、二人で出かけたり旅行へ行った話、そういったものを何も知らないと雅は気付いた。
古い付き合いではないから当然かもしれない。
友人といわれる人間全員が、そんなことまで知っているわけじゃないことも分かっている。
しかし、自分は彼女の死と爽の喪失感しか、二人の間のことは知らないのだ。
爽の妻だった人の顔は知らない。
声も知らない。
どんな暮らしをしていたのかなんて全く知らない。
だから爽の気持ちの細かなところまでは分からない。
爽はどんな生活を取り戻したいのだろう?
小出とどんな暮らしをしたいのだろう?
亡妻と同じような? それとも全く違うライフスタイルで?
彼がひとりで、あの家で、どんな思いでいるのかは聞いている範囲だけだが知っている。
しかし、今どんな暮らしをしているのかは、それ以上によく知らない。
雅は知りたいと思った。
小出はいつか知るようになるのだろう。
それが羨ましい。
「だから…なのかな、昨日小出が帰った後、俺ほっとしたんだ。自分でも驚いたよ。単なる緊張だったのかもしれないけど、小出が玄関から出たらなんか安心しちゃったんだよ。ひどい話だよな。俺のこと好きって言ってくれて、心配して、泣いてまでくれたのにさ」
「泣いたんですか」
「ああ。小出は優しいよ。智花のものを捨てられず、かといって見るのもつらくて、変な置き方してる映画のディスクとか見て泣くんだよ。でも俺は、その優しさが嬉しいより怖くてさ」
爽はジンジャーティーを一口すすった。
パウダーではなく生の生姜をすりおろして紅茶に入れたそれは、ピリリとした刺激で体を温めてくれる。
そして、蜂蜜の甘みが内側からほどけるように、爽をほぐしてくれる。
「俺はそれに甘えていいのか。すがっていいのか。小出を利用することにならないのか。俺はいつまでそうするんだろうか。小出を支えてやれる日なんて来るのかな。悲しませるだけ、疲れさせるだけじゃないのか。…って色々とさ、考えて」
ほぐれた爽の口が頭の中にあるものをこぼしていく。
「そのためのお試し期間なんじゃないんですか?」
「そうなんだけどさ、いつまでそれやってていいのかな? とんでもなく長くかかる気がするんだよな。でも、それじゃ、小出を縛り付けてしまう。小出ももうすぐ30だし、将来を考えるなら早めに結論出してやらなきゃだろ? どっちに転ぶにしてもさ」
もし結婚するとなったら、二人にはたくさんの支えが要るのではないか?
雅はそう考えた。
小出を支える人たち、爽を支える人たち、そんな人が周りに大勢いなければ共倒れになるか壊れてしまうだろう。
そんな危うい結婚生活に価値があるのかは自分にはわからない。
でも、おそらく他人には理解できない価値が、きっとあるのだろう。
では、自分もその一人になろうか?
面倒くさいな。
間髪入れずに湧き起こった思考に雅自身が驚いた。
面倒くさい? どうして?
爽は先輩でもあるが今となっては友達だ。
親友といってもいいかもしれない。
なのになぜ面倒くさいなどと?
確かに手間だろう。時間も取られるだろう。
しかし、労力を惜しむような相手ではない。
面倒くさいとは随分じゃないか?
そして、“面倒くさい”の根底に小出との関係維持はそこまでしてやるほどの事なのかと思っている自分がいることに気付く。
小出のことは嫌いではない。悪い印象は無い。
しかし、爽も小出も真面目すぎるのだ。
互いを思いすぎて我慢したり、気遣うあまり頑張りすぎたり、それを回避するために工夫やルールがたくさん必要になる。
窮屈だな、それ―。
爽にはもっと楽に生きてほしい。
リラックスして、余計なことは考えなくてもいいような生活をしてほしい。
仕事内容が頭を使うものだから、家ではのんびりしてほしい。
我慢も頑張りも、工夫も注意もいらない暮らしなら、面倒くさいなどと言わずに喜んで支えになるのに。
自分なら―
「潮海はさ、好きな人といるとどうなる?」
「そうですね…、嬉しくなって、落ち着かなくて、楽しくて舞い上がったりするでしょうね」「お前がか」
爽がぷっと吹き出す。
「なんすか」
むっとして見せる雅に、笑いを抑えながら爽が答える。
「普段は無表情で無愛想でぶっきらぼうなのに舞い上がるとか想像できない」
込み上げる笑いに爽が呼吸を乱す。
「俺だって人間ですよ」
「悪い悪い。でもさ」
爽は深呼吸して必死に笑いをとどめる。
「あ~、見てみたいわ、お前が好きな子の前で挙動不審になる様子」
ああ、おかしい、と言って笑いを収めた爽は「でも、そうだよな」と声のトーンを落とした。
「それが普通だと思う。だからさ、俺は小出を好きなのかどうか分からないんだよ。嫌いじゃないし、それなりに楽しいけど、舞い上がるとかさ、ドキドキとかさ、無いんだよな。むしろ、労苦を共にできるかとか、どのくらい踏み込んでいいのか話していいのか、そんなことばかり頭にあって」
「そりゃ疲れますね」
「そうだな…。それに小出には失礼になっちゃうんだけどさ、なんか、欲しいって思えなくて」
「は?」
空になったマグカップを受け取ってカウンターに置いた雅が振り向く。
爽は泣きそうな、悲しそうな、情けないと恥じ入るような、複雑な笑顔で雅を見上げていた。
「長く付き合えばいつかはそう思えるのかな? 小出は可愛いと思う。でも、なんか自分のものにしたいって思いが出てこないんだ。友達、仲間、同僚、後輩、そんなとこで止まってる。一緒に住んだら自然と独占したいとかって思えるようになるのかな?」
爽が欲しいのはどんな人間だろう?
爽に必要なのは誰だろう?
爽は誰をそばに置きたい? 誰のそばにいたい? 誰と共にいたい?
雅は爽へ返事をしないまま思考を巡らせた。
「小出さんは親友にならないんですか?」
「親友?」
「友達以上ってことです」
「友達以上は恋人だろう?」
そうか、そうなるのか。そうだな。男女間で親友は無しなのかな?
同性なら親友になれる。では親友以上は?
「小出さんとは友達以上恋人未満で続けるんですか?」
「…それが、問題なんだよ」
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
38 / 49