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5にしおりをはさみました!
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社の前の野営場所に異変が起きたのは、志野が社にこもって二日目の夜だった。
皆が寝静まったころ、春臣は微かな音を耳にして目を覚ました。がさりと音がして、ハッと息を飲む。近い。藪の中から、なにかがこちらを見ている……
ゾッと背筋に冷や汗が伝った。呼吸が早くなるのをこらえながら、春臣はそうっと大腿に巻き付けた革帯に忍ばせてあったクナイを引き抜いた。その瞬間、それは襲いかかってきた。
跳ね起きざまクナイを顔の前に振り上げたが、覆いかぶさってきたものの重さに負け、春臣は地面に背中を押し付けられた。
「獣……!」
熱い息を感じた。とっさに振り上げたクナイは獣の鋭い牙の間に挟まり、春臣を守ってくれたらしい。
パッと獣が飛び退き、春臣も体勢を立て直したとき、日向が駆けつけてきた。
「春臣!」
日向が叫ぶと、闇の中で黒い塊のように見える獣がもぞりと反応し、喉の奥で唸り声をあげた。
ダッと地を蹴り、一気に日向に迫っていく。
日向が槍を振り上げると、その腹に柄が食い込み、獣ははじき飛ばされた。
ギャン、という声が離れて聞こえ、藪の中へ落ちたような気配がした。
そこへ、芒が走ってきた。
「日向、春臣?
なにかあったの」
「獣だ」
日向は短く答え、闇を油断なく睨みつける。
芒は驚いて日向が見ている方を見つめた。
しばらく耳を澄ましていたが、木立が風に揺れる音が聞こえるのみだった。
「……死んだか?」
そう呟くと、日向は用心しながら藪の中へ入っていった。
「芒さま」
「春臣。怪我はないかい」
春臣が頷きで答えたとき、獣の首根っこを掴んで日向が戻ってきた。
「息は?」
芒の問いに、日向は獣を地面にぼとりと投げ落として答えた。
「どうやら、気絶しているだけだ」
芒は頷き、獣のそばにかがんだ。
「……これは、シライだ」
「シライ?」
芒は頷いた。
シライは犬に似た姿をした獣だ。ごわごわした鋼色の毛皮に、どこまでも野を駆けることのできる強靭な脚、そして鋭い牙と爪を持つ。特徴的なのはその紫色の眸だ。闇の中で不気味に光る紫色の光を見れば、それがシライであることが容易にわかる。
「シライというと、群れで行動する獣ではなかったか」
「そうだ」
日向はたまらず唸り声を上げた。
「おまえ、この森にはそれほどどう猛な獣はおらぬと言っていなかったか?
今は一匹だからよかったものの、シライの群れなど、おれひとりで太刀打ちできるものではないぞ!」
芒は目を細めて獣を見つめながら、考えるような表情をしていた。
「シライはね、日向。
ひとところに留まらず、群れを率いて山野を移動する獣なんだよ。
その群れがいつどこへどの時にやってくるかなんてわたしには判らない……そんなことより、この獣はなぜ群れから離れて一匹でいたんだろう?」
「きっと、はぐれたのだろうよ」
日向はそう言ったが、芒はまだなにかが引っかかっているようだった。
「まぁ、なんにせよ、そいつが跳ね起きて群れを呼ばれたりでもしたらたまったものではない。
今のうちに殺しておこう」
槍の穂を下向きに構えた日向を、芒は首を振って制した。
「いや、いや、もう少し待っておくれよ。
この仔はかなり弱っているし、骨も折れてる。目を覚ましたところで、仲間を呼ぶ力も、走って逃げる気も起きないだろう」
日向は顔をしかめて芒を見つめた。
「……おまえ、こいつに情けをかけるつもりか? よもや、使い魔にするなどと言い出すのではあるまいな」
芒はちょっと眉を上げて笑った。
「それは、この仔次第かな」
日向が言い返そうとしたとき、ピクリとシライのからだが動いた。
日向が鉾をまっすぐにシライに向け、身構えた。
獣の目がゆっくりとまばたきする。やはり動く気力もないのか、うつろげに芒を見上げた。
途端、芒の目がハッと見開かれた。
「……術者!」
日向と春臣は不審そうに芒を見たが、その視線を獣の眸に移した途端、二人とも息を飲んでいた。
その獣の眸は、薄く紫がかった灰色をしていた。本来、シライの眸は毒々しい紫色だが、この獣の目は程遠いごく薄い色をしている。なんと言っても、無彩色の眸は術者の証しであった。
芒の言葉を聞いたのか、シライの目も驚きで揺れていた。
そしてスッとまぶたを閉じると、やがて、そのからだに変化が起き始めた。
背中の毛が盛り上がり、メキメキと骨が軋むような音が鳴る。次第に、そこだけ空間が歪んだように腹や脚がぐにゃりとたるみ、シライだった塊は別のかたちを生成し始めた。
呆気にとられて見つめる彼らの目の前で、一匹の獣は、人間の男の姿に変身した。
闇の中でよくは見えないが、やせ細り骨が浮いた体躯の、小柄な青年だ。
青年が掠れた声でなにか言おうとしたが、息の音がするだけで、声にならなかった。
芒はそこでようやく我に返った。
「春臣、水と布を……!」
春臣は困惑しながらもすぐに行動を移し、水と布を持ってきて、青年の裸体をくるんでやった。
芒は手を添えて彼の頭を少し持ち上げ、口に水を含ませた。
「……大丈夫? 話せるかい?」
青年はすがるような目で芒を見つめた。
「あ、んたは……」
「わたしは芒。きみと同じ、術者だよ」
彼は微かに頷いた。色素の薄い眸から、つっと涙が零れ落ちた。
「じゃあ、抜けられ、たんだ」
「抜けられた?」
「国境……」
「きみ、国境を越えてきたの?」
芒は少し首をかしげたあと、あっと声を上げた。
「そうか、"異端の刑"……!」
「なんだ、それは?」
日向が問うと、芒は強い目で日向を見上げた。
「この山を越えた先にある東の国では、術者は悪魔の手先と言われてる。見つかったら処刑をくだされるのだと、書物で読んだ」
芒は青年を見下ろした。
「きみは異端の刑から逃れるために、この皇国へ抜けてきたんだね?
処刑の手に捕まらないよう、変化の術を使って」
青年は頷いた。芒は心底感動して、青年の頰をそっと撫でてやった。頰のふくらみの部分には、鋭い刃で裂かれたような傷痕があった。
「よくやったね。ほんとうに、よくやった。
ここへ来たからにはもう安心しなさい。次に目を覚ましたら、食べ物をあげよう。
すぐに手当てをしてあげるからね」
芒の穏やかな声に安心したのか、青年は微かに笑って頷くと、力尽きて目を閉じてしまった。
彼を持ち上げようとした芒に手を貸しながら、日向は物言いたげに芒を見つめた。
芒は苦笑した。
「あとでちゃんと話す。先にこの仔の手当てを」
青年の手当てを終えて寝かせたあと、三人は森が途切れた、月明かりの下で顔をつき合わせた。
「まず、なにをどう話せばいいんだろう?」
芒はそんな風にのんびりと言う。日向は呆れてため息をついた。
「そもそも、あれは最初、春臣に襲いかかったのだぞ。喰うつもりだったのではないのか?
そんなやつをおれたちのそばに置いておくのは危険だ」
「確かに、食べようとしたのかもしれないね。
あの仔は相当飢えてたようだから」
「だろう?」
「けど、あの仔は人間だ。
どうしようもなくなって、わたしたちを食べようとしたんなら、きちんと食べ物を与えてやれば問題ないよ」
日向は憮然として口をつぐんだ。
芒は乾いた声で笑った。
「なぜわたしがここまであの仔ををかばおうとするのか、不思議に思っているよね。
日向、変化の術というものはね。とても生半可な術ではないんだ。
相当の技量と、精神力、そして覚悟がなければ、どんなに優れた術者でもうまく使いこなすことはできない」
「……そう言われてもな、術など使えぬおれにはさっぱりわからん。
もっとわかりやすい言葉で説明してくれんか」
日向の言葉に、芒は神妙な顔で頷いた。
「わたしも、文献で読んだのみで試したことはないから、はっきりとしたことはわからないけど……
変化の術は、己のからだのつくりを術によって組み換え、まったく別の組織に作り変え成形し直す、超人的なわざだ。変化の術を試そうとして、血を大量に吐いて死んだ者や、獣姿から戻れなくなってしまった者、完璧に変化できず異形の姿になった者など、悲惨な結果に終わる者があとを絶たなかった。
成功した者もそのほとんどが、からだに相当な負担を強いたせいで、皆一月以内に死んでる。
だから、この術は術者たちの間で、暗黙のうちに禁忌とされてきたんだ」
正座をした足の上に置かれた芒の手が、微かに震えている。
日向はごくりとつばを飲んだ。
「……そんなとんでもない術を、あのひょろひょろのガキが成功させたっていうのか?」
信じられない、という口調だった。
しかし、日向も目の前で見たのだ。
「わたしも、まだ己の目を疑ってるよ。
あの仔は、変化の術を見事に己のものにしている。でなければ、あそこまで力が弱っている状態で、元の姿に戻れるはずがない」
「おれに襲いかかってきたときも、普通の獣と同じように見えた」
「隣国からここへ来るまで、最低でも七日はかかってるはずだ。
それまでずっと獣の姿で駆け続けてきたんだろうね」
「……異端の刑というものは、そうまでして逃れたいと思うものなのか」
珍しく、日向の顔が青白くなっている。
芒は険しい表情で手元を見つめた。
「異端の刑はね、日向。
魔の手先である術者を、残虐な方法……わたしが読んだ本によると、両手両足を、熱く焼けた鉄の杭で打って磔にし、足元から、ごうごうと燃える火であぶり殺すといったものだ。そのようにして処刑することで、国に降りかかるわざわいを浄化するんだそうだよ」
日向は低く唸った。
「それが正義だというのなら、おれはすすんで悪になった方がまだ胸が晴れる。
この皇国にとっては、術者はなくてはならん存在だというのにな」
「ほんとうに」
しばし、沈黙がおりた。
芒は顔を上げて、春臣を見た。
「春臣、すまないけど、あの仔の世話を頼んでもいいかな。
わたしも交代で手伝うから」
春臣は黙って頷いた。日向は思わず上目遣いになった。
「芒、あれに同情する気持ちはわかるが……」
芒はそっと首を横に振った。
「日向、すまないけど、こればっかりは譲れないよ。こういうのは不謹慎だけど、わたしは彼の境遇に同情しているというよりも、彼の術者としての才に非常に興味をそそられてるの。キラキラ光るふっくらした小魚が手の中に飛び込んできたというのに、きみは、それをみすみす逃してやるのかな?」
日向は真顔で芒の顔を見つめた。
「では、成魚になるまで育てて、骨の髄まで喰らうか?」
「あるいは、喰う気も起きないほどの化け物に育つかもしれない」
おっとりとまぶたの垂れた目の中に、少年のような眸の輝きをみとめて、日向はため息まじりに笑った。
「おまえは、そうだ、そういうやつだったな。
わかった、好きにしろ」
「かたじけない。
決して、殿下には迷惑をかけないから、安心しておくれ」
「当然だ」
頷きあって、彼らはようやく寝床に入った。
空は大きく傾き、東は、すでに白み始めていた。
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