アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
融解-13にしおりをはさみました!
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
- しおりがはさまれています
-
融解-13
-
良かったら家に上がっていかないかという犬飼の母親の言葉に甘え、少しの間お邪魔することにした。他の家族は出かけているようで、家には彼女しかいなかった。
「あの子の友達が来るのは久しぶりね」
友達、なのかは大河にも分からないが、母親が嬉しそうに笑うのでそういうことにしておいた。生前の犬飼のことはほとんど知らないのに、家に上がって友人として遺族と話をするのは奇妙な感じがする。
屋根や外壁がトタン作りの家は古く見えたが、中はこざっぱりとして綺麗だった。家具も新しいものではないが、よく片付いており、落ち着きを感じる。何故か懐かしい雰囲気がした。
座敷にある仏壇で拝ませてもらったが、遺影の中でも犬飼は無表情だった。「孝弘の笑った写真を探すのはとても難しいのよね。そもそも写真に映りたがらないし」と溜め息を吐く気持ちも分かる。
「笑顔の写真なんて小さい頃のものしか……そういえば君、名前は何て」
「……仲宗根です」
居間のテーブルの前に座った大河にお茶を出してくれた母親は、頬に手を当てて「仲宗根、仲宗根……」と繰り返す。そのまま彼女は引き出しを漁り、アルバムを持って来た。
「高校のお友達よね? こんな遠いところまでわざわざありがとう」
「あっちで一人暮らししてて、実家がこっちなんで、実家に顏出すついでにと思って墓に」
「そうなの。孝弘とまったくタイプの違う友達で……なんというかびっくりしたわ」
確かに、優等生然とした息子に、金髪で強面のいかにも不良という感じの友人がいたら驚きもするだろう。驚くどころか、息子は虐められているのではと心配する可能性もある。
「最近の写真は……修学旅行かしら。担任の先生がくれたものだけれど」
一日目の寺社仏閣巡り。二日目の自主研修。三日目のテーマパーク。四日目のお土産探し。数は少ないながらも、全日程の写真がある。だがどの写真でも犬飼は笑っていなかった。嫌そうな顔もしなければ楽しそうな顔もしない。
その本人は墓の前で消えて以降、姿を見せない。あの時浮かんだ予感通り、いるべき場所へ帰ってしまったのではないか。不安をお茶と一緒に飲み下す。
「これが最後の写真になっちゃったわ……」
向かいに腰を下ろした母親がしんみりと呟く。息子を亡くしてさほど月日も経っていない。俯いた彼女の目元にうっすらとクマが見て取れた。
「高校ではどんな感じだった?」
「いぬ……孝弘ですか」
犬飼の下の名前はまだ舌に馴染まない。どうしても「孝弘」というイメージがないから、声に出してみると違和感が拭えない。
「あんまり家で学校のこと話してくれなかったの」
大河も、学校での犬飼を知らない。知っているのは、死んで、ずっと自分の隣にいる犬飼の姿だ。
「……静かな奴でした」
寡黙で、自分の感情を見せない。大河も、最初は不気味でたまらなかったが、今は何を考えているのか何となく感じ取れるようになった。
ただ言葉が少ないだけなのだと大河には思えた。何も考えていない訳でも感情がない訳でもない。外側に表現しないだけなのだ。
「家でもそうだったわ」
「俺もあまり喋る方じゃないんで、ちょうど良かった」
「仲宗根君が一番仲良く?」
「多分、そうだと」
他人の交友関係に興味のない大河でも、犬飼が特定の誰かと親しくしているのは見たことがなかった。
「いつも一緒にいました」
朝起きてから、登校中も、授業中も、昼休みも、下校も、夕飯も。俺は寝るから、と大河が寝室に引っ込むまで一時も離れることはない。客観的に考えると酷く精神を疲弊させそうなことだ。家族でも恋人でも、こんなに同じ時間を共有したりしない。
隣にいない今、心はそわそわしている。それだけ一緒にいるのが当たり前になっていた。
「それで、俺を……助けてくれた」
「助ける?」
「課題とか。勉強まったく駄目なんで」
いつも一緒にいたのも、大河を守るためだった。
風呂場でウサギに沈められ溺れていたところを。公園で殴り殺されそうだったところを。犬飼は助けてくれた。彼がいなければ大河は無惨に死んでいた。
「あいつがいなかったら、俺は駄目になってた」
息子が勉強を教えてやらなければ目の前の不良は留年していた、と受け取っているのだろう。「あの子が人の役に立っていたみたいで嬉しいわ」と口元の皺を深くする。
「感謝してもしきれないぐらい……孝弘は、俺のことを考えてくれてる」
熱いお茶の入ったマグカップを両手で包むと、冷たい手にじんわりと温もりが伝ってくる。
今まで誰に対しても心を開いてこなかった。小学生の頃から人を信じられなくなった大河はいつも一人だった。誰も近寄ろうとはしなかったし、大河自身も誰にも近寄らなかった。言葉を交わすのは、言い掛かりをつけてくる連中だけだ。
家族さえ好きになれなかった。中学に入ると喧嘩をして問題ばかり起こす大河に、当然、両親は厳しかった。親の言うことは一切耳に入れなかった。出来の良い妹と比べられるのは腹が立った。口論をして母親に手を上げ、それからの家族関係は最悪だった。
それでも両親は、周辺の低偏差値の学校ではなく、遠くのそこそこの高校へ入学させようとした。大河の将来のため、という理由の他に、大河を遠くに置きたいという理由もあったのかもしれない。
高校に入っても一人を貫いた。他人と戯れる気は毛頭なかったのだ。周囲は大河を怖がり誰も話しかけてこないので好都合だった。誰ともつるまず、つつがなく高校生活を送る――筈だった。
「孝弘は、初めて出来た友達です」
こんな、どうしようもない出来損ないの人間を、守りたいと言ってくれる。好きだと言ってくれる。
犬飼は死んでいるが、唯一心を開ける相手だ。大切な相手。
「孝弘のこと……好き?」
「……はい」
「良かった。そう言ってくれる人がいて」
母親は指先で目元を擦った。
「聞いても何も話してくれないから、友達いないんじゃないかと思ってたの。君みたいな子がいてくれて良かった」
犬飼に心配してくれる家族がいると知って大河も安心する。
「何だか昔を思い出すわ。小学校に上がる前にも、お友達が家に遊びに来てくれたの。ピアノ教室のお友達なんだけど」
そう言えば以前、小学生の頃にピアノを習っていたと聞いた。幼児の時に始めて、小学校までピアノ教室に通っていたということだろう。
伊織から預かった手紙を置いてこようと音楽室へ行った時、犬飼は滑らかな手つきで練習曲を弾いてみせた。長く筋張った手が鍵盤を叩くのを見て、本当に何でも出来る男なのだと知った。
大河も幼い頃、母親の意向でピアノ教室に通っていた。自分の意志で始めた訳ではなく、一か月と僅かで止めてしまった。その頃にはすでに根気というものが欠如していた。
「初めて出来た友達だって、喜んで……」
遠い昔を思い出し、母親の言葉は最後まで続かなかった。年齢を感じ取れる口元に力を入れ、彼女は強引に笑みを作った。
「ごめんなさいね、年を取るとどうも」
箱から抜いたティッシュで涙を拭く彼女を見て、自分はこんなに泣くことは出来ないと思った。生前の犬飼を知らない大河は、彼の死をここまで嘆くことは出来ない。
あるいは、犬飼が本当の意味で死んだ時、涙を流せるだろうか。
「あの時の孝弘は、今の、今までの孝弘とは全然違ったもの。無邪気にはしゃいだりもしてたのに、お友達が教室をやめたらとても落ち込んでしまって」
涙を拭きながらおもむろに立ち上がった母親は、引き出しの中を漁って別のアルバムを出した。黄ばんだ表紙が年月を感じさせる。
今とまったく違う犬飼には興味がある。彼の笑顔など大河も目にしたことがない。
よれたページを一枚一枚捲る。生れたての、母親の腕に抱かれている写真。水が顔にかかって大泣きしている入浴中の写真。初めて自分の足で立った写真。元気に家の中を走り回る写真。
赤ん坊の写真から始まり、幼少期へ。どれも、今の本人からは想像できなく無垢であどけない表情を浮かべている。
「懐かしいわ……想像できないだろうけど、孝弘にも可愛い時期があったのよ」
次のページを捲る。鼻がすっと通った端整な顔立ちは、五、六歳の頃で既に表れていた。今と違うのは、笑っているところだ。ピアノ教室の友達だろう、家のキーボードの前で二人で鍵盤を弾きながら、楽しそうに遊んでいる。
「ああ、これね。友達が遊びに来て、一番楽しそうな時……」
何故か大河はその一枚から目が離せなかった。右手で鍵盤を叩き、左手でピースサインを作った子ども二人。顔面をくしゃくしゃにして笑う犬飼と、その隣で口は笑っているものの目が細く切れているせいかレンズを睨んでいるように見える男児。
自分の幼い頃に顔立ちがよく似ている。
「孝弘が通ってた教室って、ケーキ屋の隣の、個人で経営してた」
「あら知ってるの? 迎えに行った帰りに時々買ってたわね。今は教室もケーキ屋さんもないけど……」
「俺も通ってて」
写真に目を落としながら、大河の鼓動は早まっていた。まさか、そんな、と頭の中で過去の記憶を蘇らせようとする。すっかり忘れていた――幼児期の友達の名前など、憶えていられない。家に遊びに行く仲の友達がいたということすら記憶に留まっていないというのに。
犬飼の隣で笑っている子どもは、大河だ。
犬飼はずっと覚えていたというのか。本当に短い間だけ仲良くしていた自分を、高校生になっても覚えていたのか。
大河の頭の中で記憶と思考が交錯する。ずっと昔から好きだったと犬飼は言ったが、まさかこんなに幼い頃から。大河の方はほとんど覚えていないというのに。
幼い頃の「好き」など、ただ遊んでいて楽しいとか、それくらいのものだ。犬飼はその気持ちを十年以上も持ち続けていたというのか。移り変わる時の流れに飲み込まれることなく。何故、昔の「好き」から今の「好き」に変わったのか。
「仲宗根君?」
声をかけられてから、自分が呆然としていたことに気づいた。
動揺が顔に出ていることは分かっていたが、大河は口を開いた。
「これ、写真に写ってるの……俺です」
母親は瞠目して、しばらく黙っていた。それから目尻の皺を深くして「また来てくれてありがとう」と言った。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
59 / 68