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中間考査の季節、学校中のどこからでも嘆きと怨嗟の声が聞こえてくる。
一日二科目、昼前には放課になり、教室は今日のテストがどうだったか、出来具合を友人と話し騒ぐ生徒たちの声に溢れる。
ホームルームが終わった瞬間、侑吾は急いで荷物を鞄に詰め始めた。いつものように朝田が寄ってくる。
「テストどうだったよ。初日数学とかマジないわ」
「いつも通りだよ。数学得意だし」
「お前が得意なのは数学だけじゃねーだろが!」
「まあ、英語も物理も得意だけど」
「嫌味かよ優等生。このあとマック行かね?」
「悪い、パス」
「何で?」
「用事ある」
断られると思っていなかったのか、ぽかんとする朝田に手を振り、侑吾は教室を後にする。
廊下は立ち話をする生徒でごった返していた。廊下は幅が狭く、この人混みでは非常に進みづらい。いまだ帰る気配のない人々を掻き分け、階段を下り、昇降口に向かう――のではなく、一階の教室棟へ進む。
一階は三年生の教室が並ぶ。目的のクラスは、厄介なことに一番奥だった。三年の廊下も上の階とまったく同じ状況で進むのに苦労したが、何とか辿り着き教室の中に目当ての人物を発見する。机に腰掛け、友達らしき生徒と談笑していた。
侑吾は躊躇いなく教室の中に入り、目的地まで行く。近づいてくる侑吾に気づいた相手が、瞠目してこちらを見ていた。
「宗吾、どうした?」
突然言葉を失った兄に、その友達が話しかける。兄と同じように頭髪を染め、制服をだらしなく着ていた。
兄の傍まで行くと、強引にその腕を掴んで引く。自分の顔も、兄の顔も強張っている。
「話がある」
もとより相手の返事など聞くつもりはなく、侑吾は宗吾の腕を捕まえたまま教室を出た。抵抗する気配は感じられず、兄は大人しく拘束されたまま後ろを歩いていた。振り返ることはしないが、きっと困惑の表情をしているだろう。
来た道を戻る道すがら、生徒たちの多くが二人を二度見した。二年の生徒が、三年の不良を強引に連れ回しているのだから、驚いて当然だ。
「なあ」
「……」
「おい、侑吾」
急に何なんだよ、と不満の滲み出た声には反応せず、教室棟を離れ人気のない特別教室棟まで腕を引いて歩く。逃げたりなどしないとわかっていたが、宗吾の手首を掴んだまま。親指の付け根に、兄の脈を感じる。
鍵の開いていた自習室に入ると、暖房のきいていない部屋の冷気が身体を震わせた。鞄を机の上に置いて兄に向き直ると、宗吾は怪訝な表情で見つめていた。
「一体どうしたんだよ。俺の教室まで来るなんて、何かあったか?」
突拍子もない弟の行動を理解できない宗吾は、いつもの、弟を気にかける兄の顔をしている。
昔からそうだった。少しでも侑吾の様子がおかしいと必要以上に気を回してくれた。小学生の時、侑吾が虐められていることにいち早く気づいた宗吾は、休み時間になる度にわざわざ一学年下の教室まで来て話しかけてくれた。侑吾の持ち物が隠されると、相手の子どもに正面から突っかかって行った。
侑吾の様子の変化を察知する能力は誰にも劣らない。幼い頃から一時も目を離さずにいたからか、本人よりも侑吾のことを知り、把握している。
その兄でも、今回の侑吾の行動はわからないようだった。
「誤魔化さずに言えよ。夜、何をしてるのか」
話を切り出すと、弟の心配をしていた宗吾の表情は変わった。
「お前……今かよ」
「だって、今捕まえなきゃまたどっか行ったっきり、夜まで帰ってこないんだろ。何してるんだよ」
「しつこいぞ。いい加減にしろよ」
「兄貴こそ、何でそんなに隠したがる?」
純粋に教えて欲しいだけなのに、自然と語調は鋭くなる。何度尋ねても教えてくれない状況に、苛立ちを隠せなくなる。責めたい訳ではないのにだ。
「女なの?」
昨日も口にした問い。流石に嫌気が差したのか、短く息を吐いて宗吾は侑吾に対面するように机に腰をかけた。
「女だって言ったら、お前は納得すんのか」
「俺は、ただ理由を知りたいだけだ」
「帰りが遅いこと、怒ってんのかよ」
伏せた顔から向けられた上目の視線に、また胸が騒ぐ。
「悪いと思ってるよ。最近、まともなもん作ってやれなくて」
「怒ってるんじゃない。どうでもいいよ、飯のことは」
まったく気にしていないと言えば嘘にはなる。電子レンジで温めただけの冷凍食品。ひとりで食べる、ひんやりとした空間。虚ろに響くテレビ。正面には誰も座っていない。
「隠さずに教えて欲しいんだよ。……家族だろ」
自分たちは家族だ。たった二人きりの。二人で助け合って生きていかなければならない。誰よりも信頼する存在に、隠し事などされたくないのだ。
そして、家族でしかない。家族以外の何者でもない。血だけが、自分たち二人をつなぎとめている。
「なあ、兄貴……」
案外に自分の声に息が詰まるような必死さを感じて、腹の底で焦燥がちりちりと焼けるような気がした。
自分がどんな顔をしているのかはわからないが、兄はただ黙って見つめていた。
「……バイトだよ」
侑吾が求めていた答えを口にした途端、宗吾は不自然に視線を逸らした。弟の顔から、リノリウムの床へと落ちる。
「……バイト?」
「言うつもりなかったんだが」
「家の金、やばいの?」
自分の口から発せられた声は、色も抑揚もなく酷く冷めきっていた。宗吾は口を噤んだ。
「何で、俺に言わなかった」
「お前に黙ってたのは、心配かけたくなかったからだ。大学行くの止める……なんて言い出すだろ、お前は」
侑吾は無意識に奥歯を噛み締めた。
「お前には、金のことなんか考えずに、普通に生活して欲しいんだよ」
「……だから内緒にしてたのか」
ショックだった。兄が弟の自分に黙って夜遅くまでバイトをしていたことが。
自分はどこまで、兄に庇護されているのだろうか。何も知らない、雛鳥のように?
侑吾はもう子どもではない。宗吾とは一歳しか違わない。どうして兄は、自分の面倒を見ようと、守ろうとするのだろう。
自分はそんなに子どもなのだろうか。頼りにならないのだろうか。
「何様のつもりだよ」
「……え?」
普段より一段低い侑吾の声に、宗吾が顔を上げた。
「心配かけたくないなんて、親みたいな口ぶりはやめろ」
こめかみがピクリと震える。腹の底と頭の奥が熱い。いつの間にか両拳を強く握っていた。
「俺のことなんか気にすんなよ」
「お前の面倒見るのは当たり前だろ、兄貴なんだから――」
「兄貴って言ったって、たった一歳だ!」
言葉を遮った怒鳴り声に、宗吾は目を見開いた。教室に響くほど張り上げた声に、侑吾自身も驚いていた。
「一歳なんて、ないのと同じだ。兄貴面すんなよ。むかつく」
兄への怒りが奥底から湧き上がる。今まで細かい場面で感じていた苛立ちと歯がゆさ。
兄への憤りは、自分への憤りと同一のものだった。
単純に悔しかった。
侑吾はもう、ひとりでは生活できないような子どもではない。十分に成長した。身体に至っては兄よりも大きくなった。
だが、兄にとって自分はまだ子どもなのだ。幼い頃、身体が弱く虐められていた頃の子どものままなのだ。
兄の中では、守るべき弟という存在でしかない。
「何でキレてんだよ、お前。おかしいぞ」
宗吾にとっては、どうして今になって侑吾が腹を立てているのか理解できないのだろう。小言を言いながらもいつも気にかけてきた弟が、そのことで声を荒げる理由が。
侑吾は我慢の限界だった。今まで溜めてきた兄への鬱憤が、爆発してしまった。
昔は兄に救われて、守られて、抱くのは彼への憧憬だった。今は違う。
「何で俺が怒ってるのか、わかんない?」
宗吾が眉根を寄せて困惑していることも気に入らない。その困惑には、突然怒り出した自分への心配が隠されていることも知っている。それが嫌なのだ。
「心配されるのが嫌なのかよ。でもやめろって言われたって無理だ。俺にはお前を守る責任がある」
「責任なんて誰が決めた。守るって何だよ? 昔みたいに? もう子どもじゃない。虐められてたガキじゃないんだ」
「ガキだなんて思ってねえよ」
「じゃあ何でバイトしてること黙ってたんだ。何で俺に隠してた?」
いまだかつて出したことがない、唸るような声。憎しみをぶつけたい訳ではないのに、憤りの感情は静まらない。尖った語調で問い詰めれば、兄は窮して黙り込んだ。
「隠し事はやめろ。金がヤバいなら、ひとりでどうにかする前に俺にも言えよ」
「俺だけで何とかできる範囲だ。お前は部活もしてるだろ」
「その部活してる俺より帰り遅くなって、何とかできてるって言えるのか?」
「悪かったよ、遅くて。お前に冷凍食品ばっか食わせた」
「それに対して怒ってる訳じゃない」
対面する兄を上から睥睨する。腰掛けているせいか、宗吾の目線は普段より低い。兄はいまだに僅かな当惑を浮かべながら、上目で侑吾を見る。
「兄貴は俺を認めてくれてないよな」
自分で口にした言葉に、気分が重苦しくなる。事実だからだ。
「認めてないってどういうことだよ」
「信頼してないんだよ、俺を」
自嘲するように吐き出せば、ますます虚しくなる。今まで侑吾の言葉と感情を受けてばかりだった宗吾が、おもむろに身を乗り出して床に足をつけた。目線はほぼ変わらなくなる。
「信頼してないだと?」
「そうだよ。兄貴は俺を信頼してない。家族じゃなく、ひとりの男として」
そこで初めて兄は顔を歪め、侑吾への苛立ちを露わにした。
もっと怒ればいい。しょうがない弟だと呆れたように笑って流さずに、余裕を崩して感情的になればいい。
弟だからと思わずに、正面から、情動をぶつければいい。
「お前、話が飛躍しすぎじゃねえのか?」
「兄貴が俺を信頼してるなら、隠すことだってない筈だからな」
「俺はお前のためを思って言わなかったんだ。曲がった解釈すんな」
「それは兄貴のエゴだろ」
「何だって?」
「エゴだよ――、ッ」
首が苦しいと思ったら、襟元を掴まれていた。滅多に見ることのない兄の顔が目と鼻の先にある。
もともとキツめの顔立ちは、筋肉が強張って余計に恐ろしい。怒りで顔を赤らめながら、射殺しそうな視線で侑吾を睨んでいる。気に入らない人間と喧嘩をする時はこういう表情をするのだろうか。
「お前のことを大切に思って、気にかけてるのがエゴだって言いてえのか?」
「俺が守らなきゃいけない存在だってのは、兄貴の思い込みだ。そう思いたいんだろ? いつまでも目が離せない、弟でいて欲しいんだ」
「お前……」
「いつまでも面倒を見て、兄の役割をしてたいんだろ。そうしてる自分が好きなんだ」
宗吾の目尻が引き攣ると同時に、首元がさらに絞まって苦しくなる。しかしそれ以上の痛みが訪れることはない。
「殴れよ。俺にむかついただろ? 生意気な、弟だって」
煽るような言葉が勝手に口から飛び出す。目線を下にやると、宗吾の片手が強く握り締められ震えているのが目に入った。
「遠慮するなよ、殴れ」
「……っ」
そこから動くことはない。殴れないのだ。どれだけ侑吾の言葉に矜持や自尊心を傷つけられ激高しても、弟には手を上げない。
最初から、同じ土俵には立っていないから?
「何であんたは……俺を対等に見ない」
「何……?」
「俺は兄貴に対等に扱われたい」
宗吾の怒気が僅かに和らぐ気配がした。
「お前を下に見たことなんて」
「心配をかけさせないための隠し事なんてするな。俺は隠し事なんて、絶対にしない。俺は兄貴のことを信じてるし、好きだから」
「俺がお前を信じてないって言いたいのか? 俺だってお前を信じて、誇りに思ってる。お前が好きだよ」
「……違う」
「何が違うんだよ」
「俺の言う好きは」
「――な」
驚きで瞠った宗吾の目が、視界いっぱいに広がる。何が起こっているのか把握できず、硬直していた。侑吾は兄の困惑を慮らず、触れた唇をさらに強く押し付けた。
厚めの唇は少しかさついているが、柔らかい。ずっと、こうしたかった。兄の唇に触れたかった。
「こういうことだよ」
顔を離すと、宗吾は何度か目を瞬かせ、驚愕を隠せずにただ侑吾を凝視していた。襟元を掴む手に力は入っていない。
侑吾は固まったままの宗吾を再度引き寄せ、その唇に喰らいついた。頭を両手で抱え、間を空けず舌を侵入させると、兄の肩が大きく跳ねた。ようやく我を取り戻したのか、侑吾の腕の中で暴れ始めた。
侑吾は臆せず、兄の口内に差し入れた舌を動かした。歯茎を撫で、歯列をなぞり、舌全体で上顎を舐める。身体を震わせて反応を返す様子が酷く愛しい。つい先刻までは腹を立て詰っていたのに、触れた途端に胸にこみ上げるものがある。
自分の肩を殴る宗吾の手首を捉える。しばらく逃れようともがいていたが、じきに抵抗をなくし大人しく侑吾のなすがままに収まった。
「…ん、……ッ」
諦めたのか。いつものように、仕方ない弟だと甘やかしたのか。
兄は、何でも侑吾に好きなことをさせてくれる。拒絶することなく、すべて受け入れてくれる。一度だって撥ねのけて酷く扱ったことはなかった。
我が儘な子どもを甘やかすようで、無性に情けなく、悔しくなる。
「っ、ん……ふ、ぅ」
肉厚な舌を誘って強く吸えば、鼻に抜けるような甘い声がした。すっかり抵抗は失い、身体から力は抜けていた。深く貪り、侑吾はようやく唇を離した。唇の端から零れた唾液を拭う。
宗吾は腰ほどまでの机に体重を預け、手の甲で口元を覆って呼吸を整えていた。目線は交わらない。
「兄貴の、そういうところが……俺を傷つけるんだよ」
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