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幸せの形:横山真一という男
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真人間という言葉の意味を知った時、横山真一の頭に浮かんだのは、父の姿だった。
仕事の日だろうが休日だろうが、いつも決まった時間に起き、母が朝食を準備するまでテーブルで新聞を読む父がいた。それが、真一の朝の光景だった。
仕事の日は誰よりも先に家を出て、誰よりも遅く帰ってくる。それでも余程のことがなければ、夕食はいつも父と母と真一と3つ離れた妹の4人で食べた。晩酌はしない。煙草も吸わない。
父は寡黙で穏やかな人だ。夕食ではいつも、母や真一、妹の話に優しく耳を傾けていた。食卓で真一と妹が喧嘩を始めても、それを止めはしても怒鳴ることはなかった。
そんな父も、時折会社の付き合いで飲んで帰ってくることがあったが、泥酔して帰ってきた試しはない。しかしそんな日は、寡黙な父も少しだけ饒舌になる。
真一は妹よりも早く、テーブルではなくソファに座る酔った父の隣を陣どった。
学校は楽しいか、友達はいるのか、勉強はしてるのか、何が好きなのか。そんなことを聞いてくる父の質問に1つ1つ答えれば、父は必ず、懐かしそうに思い出話をしてくれた。いつもより少し赤い顔で、いつもより陽気な声で、何かを思い返しながら、どこか遠い目をする。
そして最後には決まって言うのだ。
『今が一番、幸せだ』
そんな父が好きだった。
決して贅沢が出来るほど裕福な家ではなかったが、真一にとって『幸せの形』というのは自分の家だった。
父は母を大事にしていたし、母も父を大切にしていた。
そしてそんな2人の間に生まれた真一や妹に、愛情を注ぐことを惜しまなかった。
「正しく生きろ」
初めて父に殴られたのは、反抗期真っ盛りの頃だった。初めてといっても、あれが最初で最後だ。
今となっては、何故あんな馬鹿なことをしてしまったのかと情けなく思う。
しかし、当時は空っぽのプライドばかりが先走りして、素直に自分の非を認めることが出来なかった。
寡黙で穏やかな父の、怒りよりも悲しみや憐れみや幻滅の色が強い表情に、真一は殴られた頬よりも強い衝撃を頭に受けた気がした。
そしてその時父が言った言葉は胸に突き刺さり、いつまでもずっと抜けないのだ。
[真人間になる方法]
一緒にお昼をと足立美奈子が誘ってくれたのは、それから3日後だった。
そしてそのお昼は、横山真一と羽田平助が合わせて取った3連休の初日に、実行へと移された。
真一と平助は2人で待ち合わせの喫茶店に行く。あの、耳の遠い老人が1人で経営する喫茶店だ。
店の中で真一が平助を殴り付けた後も、その喫茶店は美奈子に付きまとうストーカー男を撃退するための作戦会議のために何度か利用していた。
平助の案だ。
隠れ家のようになっていること、マスターである老人の耳が遠いこと、ネットにも載ってないためか昼間でもあまり人がいないこと、時間によっては貸しきり状態になること。それがポイントだったらしい。
2回目に来店する際、真一は出禁になっていることを覚悟して喫茶店に行ったのだが、マスターは真一の顔を見ても、ただ「いらっしゃい」と言うだけだった。「この前はすみませんでした」と真一が頭を下げても、マスターは「何のこと?」と返し、グラスに水をいれに行った。もしかして、本当に聞こえなかったんだろうかと呆気に取られている真一を、「真面目だなぁ」と平助が笑ったのは言うまでもない。
それからというもの、この喫茶店には真一と平助、そして美奈子の三人で来店することが多くなった。
店内は必ずと言っていいほど、ほとんど客がいなかった。経営は大丈夫なんだろうかと心配になってくるほどに。そして今回も、昼の時間を少し過ぎているためか、貸しきり状態だった。
マスターは、「いらっしゃい」と真一と平助を迎えてくれる。その声には少しだけ親しさが出てきている。
美奈子は先に来ていた。彼女も休みなのか、可愛らしい花柄のワンピースを着ている。
店内の、一番置くにある壁際の四人掛けテーブルがいつもの席だ。
真一と平助に気が付くと、その表情を明るくさせ、彼女は小さく手を振ってくる。
うん、これは可愛い。
ここまで来るのに何度も大きな欠伸をしていた平助は、それまでがまるで嘘のように「美奈子ちゃーん」と元気に美奈子へ近寄った。
その後を、真一はゆっくりと追う。
「待った~?」
「うぅん、私も今来たところ」
その会話はまるで女子だ。
テーブルには半分まで飲まれた紅茶のカップが置かれていた。
それを見ると、美奈子が今来たところではないことは容易に分かる。
自分の着ている服を美奈子に見せびらかし、一向に座らない平助を真一が押し込む。その隣に真一が座った。
「悪いな、遅れた。待っただろ?」
「全然。大丈夫だよ」
美奈子は微笑みながら片手を振った。
「真ちゃんがさっさと服選ばないから~」
「それはお前だろうが」
平助の頭を軽く叩く。
普段だぼだぼのスエットを着て寝癖をつけたまま外を出歩くくせに、今日の平助は珍しく私服だった。
出来るだけホストに見えない格好にしたかったらしいが、いくらカジュアルな服を着ても、いくら髪をセットしていなくても(寝癖は直していた)、長年の職業臭が消えることはない。レンズが異様に大きいサングラスを掛けてしまえば尚更だ。こいつは全く分かってない。
「マスター!!コーラ2つっ!マスター!!」
「うっせーよ!」
耳の遠いマスターのために声を張る平助に、真一は眉間に皺を寄せて突っ込んだ。
美奈子はそんな2人を微笑ましそうに見ながら、カップに入った紅茶を全て飲み干した。
おそらく、マスターが立て続けに注文を聞かなくてもいいようにだろう。
その然り気無い行動に、何から何まで気遣いの出来る女性だと、真一は感服するのだった。
§
「その……真一くんはいつから、対象が男性だって気付いたの?」
近況報告を行った後、何気無い話題を一転二転させた先で恋愛話に辿り着いた。まずは美奈子に向いた話だったが、それが終わると美奈子は少し小声でその話題を真一に移した。
店内には相変わらず真一と平助と美奈子、そして耳の遠いマスターしかいない。他の客が入ってくる気配もなかった。そんな自分達しかいないような空間だったのだが、美奈子はどこか周囲を気にしている。
真一は、どうせマスターは耳が遠いのだし、自分達しかいないのだから気にすることはないと、敢えてそれまでの声のトーンを変えずに答える。
「意識したのは高校生の時かなぁ」
「誰?」
「歴史教員。こんな分厚い眼鏡掛けてさ、いつも竹の指し棒持って歩いてた」
「真ちゃん、おっさん好きだったの~?」
「おっさんじゃない。紳士」
隣で飲み終わったコーラのストローを噛みながら、次の注文を決めるためにメニューに視線を落としていた平助が話に入ってくる。
そういえば、平助ともこんな話をすることはなかったなと、真一は思う。
まずこんな話を誰かにするのも初めてだ。
「確かに瓶底眼鏡はダサかったけど、でもいつもきちんとした格好をしててさ。シャツにもスーツにも皴が無くて、背筋も伸びてて歩く格好も綺麗だった。物静で、いつも授業は念仏唱えてるみたいで眠くなるんだけど、話は面白いっていうな」
「オレの頭にはバーコード禿げのおっさんが浮かんでる」
「ハズレだ。ふさふさの白髪をグレーに染めてたよ」
そこまで話すと、美奈子はその教員の姿が思い描けたのか、「素敵ね」と微笑んだ。
美奈子が思い浮かべた教員が、本当に自分の話す教員と同じなのかは分からないが、その反応に真一は素直に嬉しくなる。
「紳士なおじ様?」
「そう。眼鏡を外せばまさにそれ」
「そんな先生、私の時には居なかったなぁ。体育の先生とか、数学の先生はモテてたけど」
「体育教員は人気だよな。ノリも良いし、スポーツ出来るし。俺の学校でもモテてたよ」
女子生徒にだけど、と、真一は付け加えなかった。
それを付け加えることで、周りとは違うという違和感に苛まれた頃の自分が、戻ってきてしまうような気がしたからだ。
今は違う、と、真一は自分に言い聞かせる。
もう何年も前にこの性癖を認めたのだ。仕方がないのだという、諦めに似ている形だったとしても。
まだ飲み終わってないコーラに口をつけるが、隣から視線を感じ、飲み干す前にそれを平助に渡した。
何の礼もなく受け取ったコーラを、ズコーッと飲み干す音が遠慮なく聞こえてくる。
こいつはこういう奴だよなと、呆れた目を平助に向ければ、当の本人は全く気にする様子もなく、ストローを噛んでいた。
美奈子がクスクスと笑うのが分かる。
「平助はいつから男もイケるって気が付いたんだ?」
そういえば、付き合っているとはいえ、こんなことを改めて聞いたことはない。
「中学の時。気付いたら女にも男にも下半身がムラムラ~ってしてた」
美奈子を目の前にしても包み隠すことをしないその返答に、こいつはこんな奴だよなと、真一は再び強く思った。
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