アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
焦燥
-
菊嘉は滞在中のホテルのフロントで、らしくなく慌てた。居ると思い込んでいた秘書は既にチェックアウトし、その部屋は別人が入室していた。
「くそ、あいつどこに行った。」
受け付けのカウンターから離れて毒吐く。眉間に皺を寄せて取り出したスマホをタップし、アルバーニの番号を呼び出す。電話を解約しているという事態を考えていたが、無事に耳へ入る呼び出し音に胸をなでおろし、しかし中々出ない相手に、苛々と靴の爪先を上下に踏み鳴らした。
「まさか…帰国してないよな。」
可能性はある。元々、日本へも勝手に押し掛けて来たのだから、帰る日程も勝手に決めていたのかもしれない。それなら土曜日に、別荘への滞在を知らせた時に一言あってもいいだろうと思うが、そうしないのもあの秘書なら頷けた。
「腹立つ。」
菊嘉自身、アルバーニへ親しみを感じていないのだから相手もそうだろう。なのに何故、彼は秘書の契約期間を延長する気になったのか。ベルーガのファンだというアルバーニは、早くに狼男の秘密を知っていたのだろう。最初から、雪に対し熱心な口説き文句を述べていた。
あの朝食の席で、彼が言った事を思い出せば、既にヒントは得ていたのだ。そして自身の言動は、後悔の念に駆られる事しかない。あの時ネーヴェは何一つ、反論も怒りもしなかった。
「いや、一番腹立つのは僕自身にだ。」
続く長いコール音に苛立ちと不安が募る。それでもめげずに一度電話を切り、また掛け直す。この電話が通じる迄は止める気にならない、そうでもしないと胸に広がる焦燥感を抑えられそうもなかった。
「ワインは何がいいかな。君が好きなのはどれ?」
親しげな声音と、青い瞳が美しく輝く。上質なスーツを着た上質な男。レストランの個室でメニューを見せてくる相手に、風太は困惑の表情のまま首を振る。菊嘉の秘書だというこの男は、意識を失っていた彼をタクシーへ乗せ、この店まで運んで来た。
移動中に目を覚ました風太への説明は簡潔で、頼み事があるとの事だった。意識を奪った事への謝罪も何もない、もしかしたら、別人に襲われていたところを助けられたのかもしれないと思うくらいに紳士的で、悪怯れる様子は伺えなかった。
「あの、出来れば早く帰宅したいんで、ゆっくり食事するつもりはないんですが。」
普段の風太なら、こんな高級店でのタダ飯を断るなんて事はしないが、今は相手への警戒心が強い。
「成る程ね。それはこちらとしても好都合な申し出です…が、夕食は食べておいた方がいい。君の帰宅は、こちらの頼み事が叶うまで無理だから。」
ニッコリと笑みを浮かべ、物騒な事を流暢に言う。風太は聞き間違いか、もしくは言い間違いかと、整えられた癖のある黒髪を天然物なのだろうかと頭の隅っこで考えながら眺めた。
「おや、驚かないんだね。度胸があるのはキサメのおかげかな。ワインは止めておこう、しかし料理は既に注文済みなんだ。」
勝手に進む話と、タイミングを見計らった様に運ばれる前菜に呆れる。度胸があるとかないとかの問題以前に、風太は頼み事が何だとしても引き受けるつもりはなかった。こんな手段で強引に場を作るなど、ろくでもない話に違いない。トイレに行く振りでもして帰るかと、席を立つ。
「ちょっと失礼します。」
「逃げるつもりなら、お勧めしないよ。君が今のところ無傷でいられるのは、協力を信じてるからだ。それが無理だと判断したら、多少強引な方法を取る事になる。」
ぎょっとして固まり、向かいの席でフォークを手に取る相手を見詰める。
「ああ、言い忘れていたけれど、フォーク一つでも君を殺す事は出来るよ。」
どうぞ、と席へ座る様に手のひらで指示するアルバーニの瞳は笑っていない。その狂気を孕んだ空気に風太は息を呑み、元の位置へ戻った。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
69 / 81