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城崎双葉の話①
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馬鹿と煙は高いところへのぼりたがるというが、金持ちは何故か高いところに住みたがる。中野勝平氏を馬鹿だとは思わないが、最終バスの運行などとうに終了した深夜に高台までの道程を思うと、双葉としてはさすがに恨みがましい気分になる。この深夜ではタクシーを捕まえるのに、中野邸とは逆方向の駅前まで出る必要がある。といって歩くにはうんざりするような勾配が続く上に、閑静な高級住宅街へ向かう道には歩道がなく、必要最低限の街灯しかない。きっと金持ちには歩くという概念がない。
中野邸のある高級住宅街は文教地区の端くれで、双葉の勤務する大学附属病院からは以前住んでいたアパートよりも近かった。ただしそれは地図上での直線距離の話であって、いざ車を使わないとなれば、公共交通機関はターミナルを経由しない二系統のバスを乗り継ぐ必要があって非常に不便だ。おまけにターミナルになっている鉄道駅と大学病院を結ぶバスは結構な本数がある上に遅くまで運行しているから、こんな風に乗り継ぎ停留所で立ち往生する羽目になる。
違う。著しく判断力が低下している。駅までバスに乗り、そこからタクシーで折り返せばよかったのだ。
立ち尽くすこと五分。その間にも首筋には汗が滲み出て、双葉は不快感に眉根を寄せた。冷房の効いた病院に長時間いたせいで自律神経が狂いそうなのも不快の一因だった。
無駄な時間だと思う。どのみち帰らなければならないのに、交通手段を考えてみたり足を動かすことを面倒がって逡巡している時間など。それよりも、一歩でも中野邸に近付くべきだ。
車のヘッドライトが交差点で双葉を照らしたのは、意を決して坂道を登ろうかと一歩を踏み出した瞬間だった。交通量の少ない深夜とは言え、不自然に長い間合いだった。
「よぉ、イロオトコ。乗ってく?」
それは蓮司の仕事用のバンで、双葉は正直助かったと思ったが顔に出ないようため息ひとつで気持ちを逃がす。
「今帰りなのか?」
「ああ。シーナくんに帰るコールしたら城崎がこの辺にいるかもしれないから車で拾って帰れって」
「航平は?」
「さあね。どっちにしろシーナくんが俺に直接連絡してきてんだから大丈夫じゃね?」
助手席に乗り込むなり蓮司が車を発進させる。双葉はのろのろとシートベルトを締めた。
蓮司が何を気にしているかは分かる。シーナを航平と二人きりにしないようにしてきたのは双葉だ。二人きりになると途端に航平はシーナに無理を強いるのが常だったし、航平自身が歯止めの利かなくなる自分を恐れていた節があったからそうせざるを得なかった。
けれどあの日、四人でセックスした日以来、航平はシーナに無理をさせなくなった。それはそれで問題があるのだ。シーナが未だ航平の赦しを望まない以上は。裏を返せば、航平は赦しを乞う機会をシーナに与えていない。
「帰るコールなんかしてんのか、久保らしくもない」
「あー正確には帰れコールね。……業務連絡の一環?」
「なるほど」
「締切近えからさ、ウチの事務員ピリピリしちゃって。そっちこそ車どうしたよ、まさかバスで通ってるとか言わねえだろ」
「置いてきた。運転する自信がない」
「呑んでんの?」
「そう見えるか?」
「いや」
それきり蓮司から返答がないのをいいことに双葉は目を伏せる。勾配でシートに背中が押し付けられて寝心地が良い。当直中に仮眠が取れないのは当たり前で、三十時間を超える連続勤務など珍しい話でもないが、そこを見越して車を回すシーナの手際の良さは驚異的だった。双葉の勤務状態を把握しているだけでなく、車を置いて帰ること、駅までバスに乗らず乗り継ぎの停留所でうっかり下車して途方に暮れること、そこまで予測して蓮司に車で帰ってくるよう連絡して双葉を拾わせていることになる。
いつも穏やかで、けれど時々こちらがドキッとするようなことを言ってみせるシーナは、おっとりしているように見えて実際には敏いところがある。
かといってわざと周囲を引っ掻き回して面白がっているわけでもない。素直で、複雑で、おっとりしていて頭の回転が異様に早い。双葉から見て、シーナはいつまでも印象の定まらない人物だった。
ひとつ、確実に言えることがある。
シーナは感情をあらわにすることが殆どない。セックスの時に泣いたり喚いたりすることはあっても、日常生活でそういった感情の発露を目にする機会はなく、怒っているところに至っては今まで一度も見たことがなかった。
よく笑うようにはなった、と思う。双葉が中野邸に出入りし始めた頃は、時折感情の抜け落ちたような顔をしていた。その頃に比べたら表情は豊かになった気がする。けれど、あの頃はまだ、何度か泣いている姿を見たことがあった。無表情のままぽろぽろと涙を零すシーナを見ていて胸が締め付けられるような思いをしたのは確かだが、それがなくなり笑顔が増えた事は果たして本人にとって良いことなのか悪いことなのか。双葉には分からなかった。
帰宅する二人をシーナが優しく迎え入れる。航平はまだ帰っていないようだった。
「店終わってからもいろいろやることあるからね」
双葉も蓮司も、そして航平も基本的には夜が遅い。蓮司のところで事務仕事をするようになったところで、シーナがひとりで家にいる時間は長い。
以前はもっと一人の時間が長かったことに思い至り、双葉は眉を顰めた。
「……シーナ、ひとりで帰ってきたのか」
「そんなにやることもないし」
「久保のこと、見張るんじゃなかったのか?」
「レンなら忙しくてそれどころじゃないよ」
笑って返すシーナにそれ以上何も言えなかった。蓮司が何事が訴えていたが、無視してリビングのソファに腰を下ろす。
「双葉。部屋に行こう?」
甘えたような声に瞼を上げる。シーナが部屋に誘うのは、ここでソファに座っていたら双葉がこのまま眠ってしまうからだ。仕方ない、などという振りで立ち上がり、シーナを伴って自室へ向かうと何故か蓮司が後に続いた。
「おじゃましまーす」
「呼んでねえ」
「お疲れのとこ悪ィんだけどちょっと相談事」
シーナは二人を見比べてやはりにこにこしていた。双葉は溜息をついて眼鏡を外し、デスクへ放り投げる。
「物が少ないな」
「どうせ帰って寝るだけだ」
関係ない話に苛立つ。きっと蓮司にとって切り出しにくい話だ。だったらなぜこんなタイミングで、と思うと余計に苛々する。頭が回らないぐらい疲れていて、なおかつシーナがいるこのタイミングにどんな意味があるのか。
「シーナくんさ、事務所で電話出るとき『シーナです』って出るから結構ビックリしたわ」
「何の話がしたいのかはっきり言ったらどうだ?」
「シーナくんの名前聞いていい?」
双葉はまじまじと蓮司の顔を見る。至極真面目な顔をした彼を半ば睨みつけた。
なんで今更。
「知りたきゃ本人に直接――」
言い終わらないうちに玄関から航平の声がした。ひとしきりシーナを呼んだ後、二階へと上がる足音がして、いろんな部屋の扉を開けて回っている。
蓮司がシーナに直接聞かないのは、双葉や航平に遠慮してのことだ。そして、この話は双葉が勝手に決めていい話でもない。だが航平がいたなら間違いなく拒否するだろう。
シーナ本人がいて、双葉の頭が回っておらず、航平がいないタイミング。蓮司は狙って尋ねているに違いない。
「シーナぁ?」
ドアが開いて航平が顔を覗かせる。
「おかえり、航平。お疲れ様」
シーナはやはり場違いなほど普段どおり航平を迎え入れた。
キャストが揃った。
正直そんなことはシーナと航平が勝手に決めればいい、と思う程度に双葉は疲れていた。どのみちシーナの決めることに双葉は口を挟むつもりはないし、シーナ自身は航平のわがままなら基本的に受け入れるし、自分のわがままは意地でも通す。シーナの本名など知らないと言って三人とも追い出してやろうかと思ったが、そうすると三人でよろしくヤるのだろうかと気になってそれはそれで面白くないのだから双葉もたいがい子どもっぽい。交じるかと誘われたところでとてもその気になるわけもなかったが、自分のいないところで三人がセックスするのと、自分のいるところで三人だけでいたしているのとでは訳が違う。
「本名と、あとマイナンバーってやつね」
ベタベタとシーナにまとわりつきながら、航平は噛み付かんばかりに蓮司を睨んでいた。慣れたもので、蓮司の方は涼しい顔で受け流す。
「あのな。深入りするつもりねえのよ、俺は。単に源泉徴収の関係で知っときたいだけだから」
「そんなの適当にやれんだろ、俺だっていちいちバイトのマイナンバーとかまで知らねーし!」
航平の言い分は最もだ。そんなものは手続きする事務方が知っていればいい話で、その事務をするのはシーナ本人だ。
ただ、まともな履歴書もない状態で雇わされる蓮司の立場も分からないでもない。
「……僕は別に秘密にするつもりないけど」
シーナを後ろから抱き締める航平の指がぴくりと震えた。シーナは本当にこういう局面で爆弾しか落とさない。言えるものなら「ちょっと黙ってろ」と言ってやりたいぐらいに。
「レンだけ知らないのもやっぱりなんか良くないかな」
これで「シーナの本名など知るか」と三人まとめて叩き出す選択肢は潰された。そもそも双葉には最初からシーナを叩き出す選択肢などなかったのだ。
シーナは航平から離れ、蓮司の前に立つと右手を差し出した。蓮司は訳が分からないといった顔で反射的にその手を握った。ここで握手する意味は双葉にも分からない。
「椎名紘海です。……椎名は母方の苗字で、まぁ旧姓みたいな感じかな」
「あ、うん。よろしく」
「よろしくね、レン」
呆然とする蓮司に向かってシーナは笑いかけると、握った手を軽く上下させてから離した。それから「ちょっと待ってて」などと言いおいて部屋を後にする。双葉も、蓮司も航平も、シーナの考えることなど分からない。分からないからただ漫然と見送る。
「……あっ!」
短く航平が声を上げた。素早い身のこなしでシーナを追いかけて行くから、双葉にもシーナがどこへ向かい、何をしようとしているのか分かった。
知らないのは蓮司だけだ。
「待っててもシーナは帰って来ないぜ?」
きっと航平が許さない。
許さないと分かっててシーナがそれをするのは、蓮司に隠し事をする後ろめたさからではなく、罰を受けるためだ。ここ最近、航平はシーナが半狂乱で謝罪を繰り返すようなセックスを強いていない。
しばらく悩んだ振りをしてみせた後、蓮司が部屋を出て行こうとした。双葉は咄嗟にその腕を掴む。蓮司は半笑いで困った表情を浮かべた。
「今更逃げんのはナシだろ」
「そういう城崎はどっちの味方よ? シーナくん? それとも航平くん?」
質問は核心を突いていた。
シーナがこの男を拾ってきた理由が分かる気がした。
「俺は俺の味方でどっちも大事だ。文句あるか?」
「いや?」
蓮司は笑いながら諦めたようにベッドの端へ腰掛けた。
そして双葉はおもむろに口を開く。
――寝不足による判断力の低下。
罪を犯さなければ、あの二人に関わり続けることは困難な気がした。
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