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②仮面の人
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…車が去った後、野川は徐ろに小夜子を振り返った。
些か冷静過ぎる顔だと、小夜子は頭の片隅でぼんやりと考えた。
「お話があるんです。入れてくださるでしょ?」
入れて貰えはしないと、分かっていながら歪な微笑を浮かべる。
「話ならここで聞きます。」
予想していた以上に冷えた声が耳に届いて、小夜子は二人の修復不可能な関係を改めて悟った。
「せめて車に乗って話しましょう? ここは目立つし…」
「小夜子。」
マンションのエントランスの真正面で、別れ話をすれば、噂の的になるだろうと思っただけだ。
断られるのは承知の上だが、そんなに冷たくしなくてもいいのに、と恨みに思う。
だが、ここまで冷たくされなければ、自分はやっぱり希望を持ってしまって、また来てしまうだろう、と思い直した。
「貴方が戻っていらした時は、驚いたわ。職場の方に車で送ってもらうなんて、今までに無かった事ですもの。」
「今日は、パーティーがあって…。出先から直接戻ったものだから。」
「パーティー? 行ってらしたの?」
「ええ、どうしても外せなくてね。」
驚きもここまで重なると呆れに変わる。
あんなに人付き合いが苦手だったのに。こんなにも急激に変わるものか。
どういう人物か何も知らないながらも、あの新しく同僚になった黒木の影響に違いないと確信した。
あの、恐ろしく整った容姿の持ち主と、そんなに気が合うのだろうか。
野川のことだから、何か仕事で、物凄く話が合うということなのだろう。
自分も、音大なんて出ないで学者になれば、側にいてずっと一緒にやれたのだろうか。
苦しまずに。…苦しめずに。
「さっきの方は、研究室でお会いした…、黒木先生と仰ったかしら? 」
「…あゝ。」
「随分仲が良いのね。由仁さんがあんな…。」
優しい顔をして笑うなんて、そう言おうとしてやめた。
あんな野川は見たことがない。
先程は出ようとする車の窓を開けさせ、まだ語りかける様子に、唖然としてしまった。
おまけに、京都行き、とは、出張だろうか。一緒に? あり得ない。
そのまま、眉を顰める。
何故か、自分を疎んでいる視線をまた思い出した。
「私、あの方は苦手です。」
思わず、思ったまま口にしてしまい、ハッとした。
「何故?」
聞かれて、また驚いた。
自分では見えないが、微笑みも心の中の複雑な心境を映し出しているに違いない。
「何故って…。あの方が、私を良く思っていらっしゃらないから…。」
「!? そんな風には、見えませんが…。」
「本人にだけは伝わってくるものでしょう?」
野川は非常に驚いた顔を見せた。
彼の欠点なんて知らないとでもいうような戸惑う目だ。
小夜子は、その目を憎いと思いながらも、野川が他人に関心を寄せていると知って、少しだけ安堵もした。
「この前の電話の件ですけど、もう来ないようにって…、どうして突然? あれから何度も電話したのに出てくださらないし。」
本題を突くと、野川はまた無表情になった。
この顔は嫌いだ。野川は本心を隠すのが本当に巧みで、まるで同じ顔のマスクをかぶってしまうように、もう何も分からなくなる。
「いつも言っている事です。突然ではない。」
「私が言っているのはそういう意味じゃありません。はぐらかさないで。」
また、沈黙だ。
こういう時、説明しても無駄だと言われているようで、苦しくなる。
理解できなくても説明して欲しいのがこちらの気持ちであるのに、何年経ってもわかって貰えない。
理解しなくても良い、そう言われているのと同じだというのに。
小夜子は、悲しすぎてまた微笑んだ。
悲しい時に悲しい顔が出来ないなんて、まるで愛しい人の鏡のようで、胸が痛んだ。
目の前の、優しくて残酷な男。
野川は今、小夜子を捨てた責めを一身に背負って、そうは見せないままに自分と訣別しようとしている。
「どなたかの影響ですか? 好きな人ができたとか? 新しく恋人でも?」
「そんな人はいません。仕事上、否応なく立場が変わっていく中で、自然と心境が変化しただけです。」
仕事の立場、というと、思った通り黒木の。
そんな人はいない、という野川の言葉に、心底喜ぶと同時に、自分でもどうしようもないくらい苛立ちを覚えた。
「さっきの…黒木先生の影響ということですか?」
「大方そうです。」
「そう…。」
本当はすごく傷ついている。腹も立っている。
…自分は野川の元の妻である。
誰よりも彼を愛しているし、一番近くに立っているはずだ。
だのに、自分には何も無い。
彼に影響なんて、与えられた試しがない。
彼の心境を変化させるような存在でもなかったわけだ。
悲しい、怒っている、ホッとしてもいる…。
ただそのうちのどれよりもくっきりと分かっているのは、孤独だった。
これで、最後だ。
意を決し野川を見上げた。
「由仁さん、私、どうしても貴方とやり直したいんです。」
涙は流したくない。泣き落としで戻ってきて欲しいわけじゃない。
一生懸命見上げ、野川のスーツの前合わせの裾をキュッと掴んだ。
しかし、自分を誰よりも可愛いとでもいう様に目を細めて見下ろしてくれた優しい瞳は、もうそこには無かった。
「小夜子、私はもう、君に関わらないと決めたんです。君のためだけじゃない。二人のためだ。」
人に冷たくするのは苦手な癖に、無理をしてまで。
それそのものが、彼が自分を大事に思う証明だった。
「私の我慢が足りなかったの。今度は上手くやれるわ。もっと頑張るから。だからお願い。」
弱みに付け込むような言い方をわざとした。
「…わかりました。では、もう一度、結婚しましょう。」
「由仁さん…!」
一瞬、我が耳を疑った。喜びに震える胸を抑えて振り仰ぐ。
しかし、そこには澱んだ感情のない瞳があって、心ごと寒くなった。
「それでもう一度、以前と全く同じ道を辿って離婚して、君を捨てましょう。そうすれば、分かって貰えるかも知れないね。」
「そんな…。」
溜めるだけ溜めてこらえきれず零れ落ちる涙を、拭いてくれる者は、ない。
「君は、幸せになって下さい。私には、叶えられない。」
静かに、無情に。
答えなら、知っていた。希望を持ってはいたが、知っていたのだ。…3年前、離婚した日から。
「…由仁さんは…?」
驚いて目を見開いている。何の事か分からないで、首を傾げている。
自身の事には無頓着で、二の次で、人の事ばかりで。
「貴方が、私のことを気にかけるのと同じように、私も貴方が気がかりなの。心配なんです。」
このままじゃ幸せになれない、と言って、鋭く見上げた。
「この家に、ずっと暮らしていくつもりなの?」
「この家は気に入っていますし、引越しは面倒だから。」
野川は、小夜子の言葉が余りに予想外で、たじろいでいた。
それに少しだけ気を良くして、小夜子は畳み掛ける。
もう最後なのだ。言いたい事は言っておかないと。
「私の寂しさや苦しみを、わざと忘れないでいようとしているんでしょう? この家の中で、私のかけらを集めては、いつまでも罪の意識に囚われていようとしてるのね。」
珍しく仮面の下から動揺が伝わってくる。
それでもう満足するべきだろうか。
「どうかもう、私への罪の意識は忘れて。私に幸せになれというなら、貴方も幸せになって下さい。」
二人で暮らした大切な家が、今以上悲しみ色に塗りつぶされるなんて耐えられない。
「このままじゃ、貴方のことが気になって、心配で、幸せになんてなれません。」
「小夜子…。」
「貴方を。…愛しているのよ、私。知らなかった?」
そう、野川は知らないのだ。
一人悪い事を背負えば、小夜子を守れると信じている。
でもそれは間違いなのだ。
彼は、自身が周りに愛されるべき存在だと知らない。
小夜子の言葉にすっかり戸惑って、棒立ちだった。
「ご両親の事故のせいもあるのよね、きっと。6年生だったかしら? 突然の別れだったから…。」
彼の両親は、飛行機事故で一度に亡くなったらしい。
そのせいか野川には、自分自身や周りの人間の、存在自体を信じられない様なところがあった。
ふわふわと、どこにも属さないで、敢えて漂っていようとする様な。
「でも貴方は生きてるのよ? 一度きりの人生…死んでいくのではなくて、生きていって欲しいんです。周りの人に愛されて、自分も愛して、ちゃんと生きて幸せになって欲しい。私には、叶えられなかったけれど…。」
わざと、野川の言葉を使ってそう言った。
貴方だけが悪いんじゃない、と…そう伝えたかった。
結婚とはこういうものだと、野川を型にはめようとして、無理をさせてしまったから。
小夜子は泣いていながら微笑う。
「三度の食事をきちんと。睡眠をしっかり。自分を大切にして。愛し愛される人を見つけて。」
「…わかった。」
「私、幸せになるわ。…貴方のために。だから、貴方も幸せになって下さい。私のために。」
破ったら私が不幸になりますからね、と小夜子は一番の笑顔を見せた。
まじないの呪文の様に、幸せの呪縛をかける様に、祈りを込めて言葉を紡いだ。
自分のためと思えば、幸せになるため足掻いてくれるのではないかと。
しっかりと頷く野川を見届ける。
笑顔は、長くは保たなかった。
崩れた顔を見せたくなくて、すかさず背を向けた。
「さよなら、由仁さん。…気をつけて帰ります、私。…ちゃんと。」
泣き笑いの声は震えたが、これですっきりしたと思おうとすれば、思えなくもない。
幸せになりましょう、私たち。
心の中で呟いて、振り向く事なく足早に車に戻った。
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