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手離せないぬくもりの証
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見せたいもの。
早坂がいつになく深刻な表情でいる事に、野川はそっと唇を噛み締めた。
この一週間、避けようの無い事情が重なり合って、切らした薬を取りに来るのが今日になってしまった。
この病院に来て、早坂に会わないで帰れるわけがない。
それは分かっていたことだった。
しかしさすがに一服盛られるとは思いも寄らなかったが。
自嘲とも溜め息とも付かぬ吐息を漏らし、目を伏せた。
膝の上で両手を組み合わせ、それを見るともなく見つめる。
その前に、と早坂は、思っていたよりは柔らかい声で言った。
「この週末、何してた?」
「…週末は…、京都に…。」
つい、言葉に慎重になる。
仕事か、と聞かれ、気まずく否定した。
お前が仕事を置いて週末に旅行なんて、と早坂は酷く驚いている。
「…それって…、例の新人と、一緒だったのか?」
「…。」
下手な嘘は通じない相手に、しかし、素直に肯定も出来ず黙っていると、早坂は、そうなんだな、とまた一つ小さな溜め息を吐いた。
張り詰めた空気の中、野川は、早坂が土曜の夜の事を何か悟ったに違いないと、もう覚悟するしかなかった。
「…楽しかったか?」
「え?」
「旅行だよ。」
あゝ、楽しかったよ。…迷いもなくそう答えた。
旅程は完璧だったし、何と言っても、一人ではない博物館で、あんなに幸せに過ごせた。
黒木とは、観覧のペースも同じで、しかも…。
優しい瞳や声を思い出すより前に、思考を中断した。
野川が一瞬眉根を寄せたのを見て、よく分かったよ、と受けた早坂は、また厳しい表情に戻った。
その真っ直ぐな視線を受け止められず 、俯いて次の言葉を待っていると、唐突に手鏡を差し出された。
変な緊張感が背中を這い上がって、…何となく鏡の中の自分と目を合わせない様、おずおずと受け取った。
と、今度は、黙ってスタンドミラーを引き寄せながら早坂が言った。
「壁を向いて、背中を出せ。」
「? …え?」
「合わせ鏡だ。良いから言う通りにしろ。」
野川は口を噤み、喉をゴクリと鳴らした。
見せたいものとは、背中だろうか。
だとしたら一体背中に何が、と必死に思いを巡らす。
視線を惑わせ、ゆっくり壁側に向いたものの、何もかも暴かれる予感に心が震え、ボタンを外す手は進まなかった。
「野川、…見てないのは、お前だけだ。」
早坂が気遣わしげな声で告げた。
この期に及んでなす術はなく、目をグッと閉じると思い切ってボタンを外していく。
やがてそろりとシャツを下ろし、恐る恐る手鏡を覗き込んだ。
「!? …っ!」
一瞬言葉も無く顔を強張らせたが、直ぐ様シャツを羽織り直して、震える指で懸命にボタンを留めた。
…そう言えばあの夜、背中に何度も、微かな痛みを感じた様な…。
「おい、野川?」
そう思った時、まるで同じ時点、同じ場所に戻ったかと思うほどリアルに、触れた黒木の肌の感触が背中に蘇って、思わず息を止めた。
その重みと、包まれる温もり。
…思い出したら…ダメだ…。
この身体に躊躇いもなく触れ、追い詰める手の熱さ。
…忘れなければ。
いつもの、あの耳に心地よい声で響く、甘い言葉…。
…なかった事に、しないといけないのに。
忘れて下さい、という苦しげな声までも。
…辛くはない。
こんな痛み、どうってことない…。
「オイ! 息をしろ、息を。」
心配そうに肩を揺する早坂の声で我に返った。
身体の向きを戻し、視線を上げると、何とも心配そうな瞳と目が合い、思わず目尻を下げて微笑んだ。
「やっぱり、帰るよ。今日は仕事にならなくて…。明日はさすがにちゃんとしないと。」
「野川、全部を報告しろなんて言わない。少し話そう。」
早坂は、いつもより優しい口調でそう言った。
…何も話すことはない、とか、全て忘れた、とか。
言ってしまうのは簡単だが、納得して貰えそうにない。
忘れないとならないのに…。
「心配掛けて、すまない。でも、大丈夫だから。」
「野川…。」
早坂は名前を呼んだが、一旦言葉を飲み込んだ。
「…俺は、お前に謝って欲しいわけじゃない。」
そして少し掠れた声で溜め息混じりに言った。
「…。」
申し訳無くて黙り込み、何となく、親指の付け根で胸をそっと押さえた。
早坂は、一層苦しげに眉を寄せる。
昔から、いつもこうして自分の代わりに苦しんだり、怒ったりしてくれるのだ。
それにどれだけ救われてきたかは、きっと誰にも分からないだろう。
早坂にすら。
「なぁ、さっき、息をするのも忘れて、何を考えてた?」
いきなり、核心を突かれ、野川は、瞳を揺らして巧い答えを探す。
だが結局、もう忘れたよ、と言って笑った。
「忘れた? 考えると息が止まる程の事をか?」
「早坂。」
野川は、その穏やかな顔を、崩しこそしなかったが、その目の悲しみの色を一層深くして、弱く微笑んだ。
「忘れないと、いけないんだ。」
あの夜言われた言葉をなぞる様に言うと、耳の奥に『忘れて下さい』という黒木の声が響いた。
「…っ! 」
反射的に、片手を耳に添えた。
残酷な響きが、あれから何度でもこの胸を引き裂く。
「お前、…まだ一緒に研究しようとか、思ってんのか?」
思わずビクッと肩を揺らした。
「…野川っ…」
怒られるのかと身構えたが、また早坂は黙り込んだ。
何故か、泣きそうに顔を歪ませている親友を見て、野川は顔を穏やかにし、早坂は一層苛立ちを募らせる。
二人の、よくあるパターンだった。
「…なんで、まだ続けたいんだ、そんなヤツと。」
早坂は苦い顔で静かに尋ねた。
何故と聞いていながら、答えがわかっているような口ぶりに、唇を片側だけ持ち上げる様な形ばかりの笑みを浮かべた。
「それは…、何より自分で引き受けた事だし…。それに、一度テーマを決めた論文は、最後まで放り出したくないんだ。」
「だから、なんで。…普通なら、顔を見るのも嫌なはずだろ。」
「黒木先生だけが、悪いわけじゃ無いんだ。」
咄嗟に庇うような事を言って、しまった、と口に手をやった。
「どういう意味だ?」
顔を強張らせ、とうとう怒りを露わに目を鋭くした早坂を見て、野川は頭を抱えたくなった。
事情を説明するつもりはなかったのに、早坂の気持ちを考えると揺らぐ。
しかし自分としては、もうこの話は勘弁して欲しかった。
新幹線で偶然見た、黒木の苦悩に満ちた表情がチラつき、苦しい胸を一層締め付ける。
あの時は見ていられなくて背を向けた。
彼が忘れたいなら、そうさせてやりたいのだ。
…だってそうだろう。
罪悪感の重さに耐えられなくなったら、彼は共同研究をどうする。
忘れろと言う言葉は、自分にとっても都合が良い事であるに違い無かった。
自分の痛みなら、自分で解決出来る。
今、最も大切な事は、現状を変えない事だ。
…少なくとも…、自分にとっては。
深い深い溜め息を一つ吐いて、野川は早坂を見上げた。
「傷つけたのはお互い様だって意味だよ。」
嘘は言っていない。
だからこれ以上、掘り返さないで欲しい。
「もう勘弁してくれ。…早く忘れないと。」
「…。」
早坂は黙り込み、注意深くこちらを窺っている。
その瞳に敢えて視線を合わせ、逸らさない様に見つめた。
その目は、しばらく鋭いままだったが、やがて長い溜め息とともに視線を外した。
「その、忘れなきゃいけないってのは、続けていくためなのか?」
突然、投げやりな口調でそう聞かれた。
何とも答えられずにいると、早坂はまた深い溜め息を吐いた。
「…別に、どうしても忘れられなきゃ、憶えていりゃ良いだろ。」
驚いて見上げた自分を真っ直ぐ見つめ返して、努めて優しく。
「無理に忘れなくて良い。俺が許す。」
その言葉を聞いて、野川は大きく息を吸った。やっと胸深く吸込むことができた。
自分が、何に一番傷ついているのか、早坂と話していてようやく気づいた。
…早坂が見せたかったのは、背中だけではなかったのかも知れない。まるで最初から、知っていた様な顔でいる。
しかし、親友がいくら言わせようとしても、このまま、この思いに、名前をつけるつもりはなかった。
「一人に、してくれないだろうか? もう、大人しく寝むよ。」
穏やかに微笑むと、早坂は驚いた顔で息を飲んだ。
「何でそんな風に笑うんだ。」
あんまり素直に聞くから、一層微笑みを深くした。
「お前が、親友で良かったと、思うからだよ。」
早坂が片眉を上げた。
「…今頃かよ。」
不貞腐れている。
「改めてだよ。」
そのまま、おやすみ、と微笑みで押し切り、差し出された薬を受け取って早坂を帰した。
…大切な人から向けられる自分への愛情や優しさを、これまでずっと棚上げしてきた。
自分を引き取ってくれた叔母夫婦の愛情こもった眼差しも、元は従兄弟である、弟から向けられる親しみの情も、小夜子も。
…今だってそうだ。
真正面からは受け止められない。相手が大切であればあるほどに。
自分と親友でいることは、早坂にはストレスばかりだろうに。
…そんな風に言ったらまたすごく怒られるな、そう思って苦笑いした。
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