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今はたゞ
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いつかの歓迎会でも、こうしてトイレに逃げ込んでしまった事を思い出し、進歩のない自分に、虚ろな目の色を一層鈍らせる。
ここ1か月余り、野川の真似事みたいに笑顔を作り続けてきたが。
やはりあの微笑みは、野川にとって本心を隠す鎧の様なものだと、改めて確信した。
…やっとそうではない笑顔を向けて貰える様になったのに、裏切りによって自らそれを手放してしまった事も。
「はぁ…。」
最近一人になると、決まって溜め息が口を衝く。
『今はたゞ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな』
ーー今はたゞ、あなたを諦めます、という切ない一言だけでも、人伝てでなく直接お逢いして伝える術があれば良いのにーー
最近よく思い出す百人一首の悲恋の歌だ。
会おうと思えば直ぐに会える状況は歌とは違うが、今の自分には胸に迫るものがある。
自分の気に入りの歌でもあり、野川の好きな歌でもある。
大阪出張に出掛ける新幹線の中、二人打ち解けた会話をするきっかけをくれた歌…。
しかし、悲恋というものがこんなにも苦しいものだと身を以て知ってしまった以上、この歌を好きになった過去の自分を、今はたゞ、幼なかった、としか。
…一息ついたところで個室を出て、ぼんやりと手を洗い、目の前の鏡を何気なく覗いた。
「ッ…!?」
鏡の中、背後に映り込む人に驚いて肩を揺らし、弾かれた様に振り返ってその名を口にした。
「三崎先生…。」
正面からそれ以上目を合わせられず、鏡越しに、お疲れ様です、と短く挨拶した。すると三崎もまた、お疲れ様、と短く返した。
心臓が痛いほど鳴っている。
先程から妙に言葉少なだと感じていた。
やはり何か、思うところがあっての事だったようだ。
「単刀直入に聞くけど…、野川さんと、また何か揉めてる?」
「…いえ。何故、そうお思いに?」
誤魔化せない人だ、とは言わず、力無く微笑んだ。
「隠し上手な貴方は、何ともつまらないね。」
素っ気なく言葉を投げてよこす三崎は、いつになく苛立って見えた。
「…何も隠してはいません。」
「そう…? …京都行きの後、二人が一緒にいるところを見ていない気がして。」
京都行き、という言葉に、少し力がこもっていた気がした。
気にするのも無理はない。
チケットをくれ、楽しい筈の旅行のきっかけを作ってくれたのは三崎だったのだから。
「新年度がスタートして、忙殺されていて。野川先生も、とてもお忙しい様ですし…。」
「あー、…だね。」
三崎は、やはりいつもより不機嫌そうに見える。
緊張で、手をギュッと握り込んだ。
「研究資料や、論文のリストなどは、メールで常に遣り取りをしていますよ。」
微笑んだこちらの言葉に、んーそうだろうね、と全く気の無い返事をした三崎が、鏡の中、一段と眼を強くした。
「そう言えば、野川さん、最近また室に泊まり込んで仕事しているみたいだね。知ってる?」
「…ええ、何となくは。」
痛いところを突かれ、つい狼狽えて目を泳がした。
そうなのだ。
野川が今何本の論文を抱えているのかさっぱり分からないが、恐らく息をつく間もないくらい仕事に打ち込んでいる。
のめり込んでいると言ってもいい。
悪魔と契約した、とも揶揄されるほどに。
5日程前の教授会で見かけた時は、そのやつれぶりに驚いた。
目の下の隈や蒼白い顔を目の当たりにし、食事も睡眠もちゃんと摂れているのか…、心配で心配で仕方がなかった。
研究棟のシャワー室を使っている話も聞いたし、室に持ち込んだ長椅子ででも寝ているに違いない。
その割にスーツやワイシャツはきちんと整っていたようだったから、学校近くのクリーニング店をクローゼット代わりにしているということかも知れない。
このままでは身体に毒だ。
もちろん気になる。
ならない訳がない。
だが黒木としては、その原因が他でもない自分なのだから、どうにもしようがなかった。
どんなに心が痛んでも、もどかしくても、何も出来ない。
自分が関わったら、寧ろ、野川は…。
「優秀な人に追われるプレッシャーって凄まじいものなんだね?」
「! …どういう意味でしょう?」
「…やっと表情が変わったね。私は、貴方が野川さんを追い詰めている、…そう言ってるんです。」
…眩暈がしてきた。
確かに、野川を追い詰めているのは自分であろうと思った。
但し、三崎の言うようなそういう真っ当な意味の事では決してない。
額が重くなって、つい項垂れる。
「黒木さん、身を引いてくれないかなぁ? なに、貴方の話を一度引き受けた後だ。野川さんも、きっと今なら頷いてくれるでしょう。」
頭を殴られた様な衝撃を受け、黒木は思わず手洗い用の流しに手をおき身体を支えた。
楽しみだなあ、テーマを考えるのも楽しいよ、などと話す三崎の声が、不自然なほど滑らかに周囲の空気を震わせては流れていく。
違和感に、気分が悪くなる。
自分の中にある迷いが…、そうした方が良い様な気にさせた。
野川のためにどうするべきか、そもそも、自分にできる事などあるのか。
「まさか、それが狙いで私の背中を押して下さった、とでも?」
「と、言ったら?」
三崎は飄々として、いつも通りに見える。
それでも、今直ぐにその心を疑うのは非現実的だと思った。
「…信じません。」
「え?」
驚く様子に、少し冷静さを取り戻し、鏡越しの会話を終わらせるため、三崎を振り返った。
「三崎先生のお言葉は、いつも野川先生への友情から来ていると思います。そんな利己的な考えからではなく。」
キッパリ言うと、利己的って…、と可笑しそうに微笑んだ。
「友情ね。…だったらじゃあ、だからこそ貴方を遠ざけようとしている、とは考えないの?」
「三崎先生は、私にも、必要な時に必要な助言を下さいました。本を託された件も、感情を表に出し過ぎない様教えてくださった件も。…それから、國廣教授のパーティーに必ず同行する様にとも。」
「…。」
三崎は、終始こちらを観察する様な冷えた表情をしている。
それでも話し始めた時よりは、何処と無く目が穏やかになっている気がした。
その瞳がそっと伏せられ、唇からは静かな吐息が溢れた。
「…何があったか聞く気は無いけど、とにかく野川さんのフォローは貴方の仕事でしょう。逃げ回っていないで、直接話しなさい。」
「三崎先生…。」
「貴方は、貴方らしく。野川さんの真似なんて無意味だ。」
…無理に笑う事を指して言っているのだろうか。
「それから…、私は、共同研究を諦めたなんて、野川さんにも誰にも、一言も言ってません。貴方が思うより“利己的”だよ。気をつけないとね?」
三崎は、たっぷりと含みのある笑顔で、じゃお先に、と手に持っていた鞄を軽く持ち上げて見せた。
中座して帰るその背中を見届けると、ドッと疲れが押し寄せて来る。
鞄の存在に気づかないほど、自分が張り詰めていたことを少し恥ずかしく思ったが、三崎にはこれで良いのかも知れないと直ぐに思い直した。
目を掛けてもらっている、そう信じておこう、安堵の混じった溜め息を吐いた。
…今はとにかく、野川の事だ。
“自分には何も出来ない”なんて、また甘い事を考えていた。
ついさっき、それを反省したばかりだというのに。
野川が自分と顔を合わせたくなかろうと、そんなことに構ってはいられない。
必要なら例の主治医の病院へ、縄かけてでも引っ張って行かなければ。
それで傷ついても良い。
今よりさらに嫌われたとしても…、構わない。
ーー野川さんのフォローは貴方の仕事でしょう。
そう言ってくれた三崎の言葉を、丸呑みさせて貰おう。
それにどの道、…会えない生活は、もう限界だ。
…鏡を覗けば、苦しさに歪んだ顔が映り込んでいた。
眉間のしわを指先で伸ばす様に摩りながら、穏やかな表情というものを浮かべてみる。
自分らしく…。
三崎がくれた言葉をありがたい思いで噛み締めると、却って、絶対に明らかに出来ない秘密の重みを感じた。
今夜の飲み会は、長くなりそうだ。
黒木は鏡の中の自分と見つめ合い、深呼吸して気を引き締め、明るい酒の席に戻った。
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