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わびぬれば
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「なんで行かせたんだよ。」
一通り診察し、栄養剤の注射も終えてから、早坂は、盛大なため息をついて、ボヤいた。
診療が終わる時間を少し回って、患者もいなくなった病院の前。
入り口付近で待ち構えていた早坂は、車上の黒木とチラリと顔を合わせることは出来たものの、結局、会釈を交わすだけで終わった事に苛立ちを露わにした。
「お前が、会いたがっていると思って。」
そう言って、拗ねる早坂に苦笑を返せば、じっとりとした恨みがましい目付きが返ってきた。
「けど、よく納得したな。」
「え?」
「会いたがってたろ、俺に。」
驚きに目を丸くした。
「どうして…。」
「分かるかって? そりゃあ、お前の身体が心配なら、医者には色々聞きたい筈だ。…俺があいつなら、そう思う。」
事もなげなその口調に、さらに驚く。
早坂は、黒木に対して、悪い印象を持っているとばかり思っていたのに。
「どうやって納得させたんだ?」
「…職場の人と親兄弟を会わせるのと似て、決まりが悪いだろう、と言った。」
なかなか引き下がらなかった黒木は、そう言った途端に、なるほど、それもそうですね、と不思議な程あっさりとこちらの言を受け入れた。
「へぇ。それで言う事聞いてくれるなんて、さすが、よく躾が行き届いてるな。」
早坂は感心しているが、野川は苦く眉を寄せた。
「…そんなんじゃないさ。帰るように言ったのに、また30分後に迎えに来ると言い残して行ったんだ。」
渋い溜め息が口をついた。
…この後大学へ戻ると疑われているのだ。
そうはさせないために、確実に家へ送り届けたいのだろう。
つまり譲歩した様でいて、実は最初から通したかった要求はそれ一つ。後はオプションということだ。
黒木は本当に…、交渉術に長けていると言うか、これまでも何度となくこうして彼の望む通りに事を運ばれてきた様に思う。
ハハ、と早坂は声を上げて笑った。
「お前、よく理解してもらってるじゃないか。やられたな?」
ここへ来たら、もっと叱られるかと思っていたが、早坂は存外に機嫌が良い。
自分で言うのも何だが、黒木が心配するのも仕方がないと思うくらい、酷い顔色をしていると思うが。
「…今日は、怒らないのか?」
うまい話には何とやら、だ。
嫌だったが、早々に自分から切り出した。
「…。」
早坂は、暫く無言で刺すようにこちらを見つめていたかと思うと、視線を和らげてそっと吐息した。
「怒れば恋の病が治るなら…、俺だって怒るさ。」
早坂の静かな口調に騒めく心を隠して、伏し目がちに微笑みを作った。
「…何の話だ。」
「いい加減認めるんだな。本来‘仕事が恋人’のお前が、少々忙しくしたからってこんなにやつれたりするかよ。」
野川は、その表情を一層優しくした。
「‘仕事が恋人’か。だったら、恋の病は正しいな。」
早坂は、白々しい言葉に背を向け、診察室のPCに向かいカルテを打ち込む。
「…久しぶりに会えて、嬉しかったか?」
「…?!」
背中の向こうから掛けられたその言葉に、胸が凍りついた。
…何の話だ、とは、もう聞けなかった。
「お前のことだ。あれから、しばらく顔合わせて無かったんだろ? だからそうなった、違うか?」
野川は、言葉を失って、呆然とその背を眺めていた。
少し油断すれば途端に目の前に浮かび上がる、かの人の憂い顔に、心乱れる。
「早坂…、」
声が、心と同じに震えて。
表情を取り繕う暇も与えられないうち、早坂がくるりと振り返った。
そうしてこの顔を上目気味に一瞥すると、早坂は苛立った様に自身の頭を掻き混ぜた。
「この一月、あの男を呼び出して、話を聞いて、説教して、って…何度考えたか知れやしない。」
「! 早坂…っ。」
「な? 嫌だろ?」
真剣な顔をして何を言い出すかと思えば。
「…脅してるのか?」
「! …馬鹿が。勘違いすんなよ。」
声は抑え気味であった。
しかし、眉を寄せた早坂の瞳には、烈しい怒りが浮かんでいる。
「…脅しなんて、姑息なマネするくらいなら、とっくに呼び出してる。」
火花を散らすかと言うほど、暫し睨み合う。
早坂は、そのまま視線を外さずに言った。
「吐け。」
困惑仕切って、何を、と問い返した。
まるで吐息の様な、か細い声しか出せなかった。
「何もかも。…自分の気持ち、あいつの話、一番望む事、一番嫌な事、隠さないで、全部吐き出せ。」
全部…。
そう言われても、とまだ戸惑った。
「誰にも言わないし、…呼び出しもしない。約束するよ。」
その目は、心底自分を心配している。真剣で注意深い眼差し。
早坂の方が余程傷ついて苦しそうな顔をしている、と頭の片隅でぼんやりと思う。
野川は、胸深く息を吸い込むと、細く長く吐き出した。
この男が、言わないと言えば言わないし、しないと言えばしない。
分かっている。
しかし。
「なぁ、野川。…俺は医者だ。」
「…。」
「根治療法が無理なら、対症療法でいくしかない。だろ?」
どうやら叱られるよりもまずいことになった、と野川は切ない溜め息を吐いた。
「話し難いなら、あの‘親バカ大仏親父’を呼んでも良い。」
またとんでもない事を言い出した親友に、ギョッとなった。
「早坂先生は、苦手だよ。話しを聞いてもらうなら、お前が良い。」
それを聞いて、今度は早坂が驚いて目を剥いた。
「はぁ?! …何だそれ? 初耳だぞ…?」
「…。」
早坂の父親は早坂 頼(より)といって、心優しい小児科医だ。町医者だから内科も診ていたが。
ただ野川は、この父親医師が苦手で仕方がなかった。
「早坂先生は、何でも許してくれるから…。」
何でも許されると、何も許されていない様な気がして、苦しい。
「先生と話すと、汗びっしょりだよ、いつも。」
早坂は、驚き過ぎたのか、ポカンと口を開けたまま、しばらく静止していた。
「知らなかった。お前は…、てっきり親父が、良いのかと…。」
「早坂先生は大好きだけど、診察は苦手だ。」
苦笑いしながら一度伏せた目を上げると、早坂が照れた顔で、サッと目を泳がした。
「あー…、おぉ。そ…そうか。」
早坂が父親に、何故か劣等感を持っているのは知っていた。
しかし、それに自分が関係しているとは、あまり考えたことがなかった。
「すまない。もっと早く言うべきだった。」
「ン? あぁ、イヤ、まぁ、別に…。」
ほんの微か頰を赤くし、しどろもどろになっている早坂が何とも珍しく、心が温かくなって。
気が付けば、心から微笑んでいた。
…もうこれ以上、早坂を相手に自分を偽るのは、人として…、いや、親友と呼ばれる者として、許されない気がしていた。
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