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罪と代償2
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「それで? どうした。里心がついたのか? あ…、わかった。お前、新年度始まる前にもう野川先生のご不興をかったんだろう?」
「な…ッ!?」
連絡した時にはまだ平穏だったにも関わらず、図星を指される事の何と口惜しい事か。
そんな事だろうと思った、と言う橘の愉しそうな響きが、忌々しい。
「っ…そんなんじゃありませんから。」
苦し紛れに嘘とも真実とも言えない言葉を投げた。
「なんだ、泣言を言いにかけてきたんじゃないのか。」
「とんでもない、違います。ただ、橘先生は、一生私の大切な恩師ですから、きちんと…、」
「ごたくはいい。どうせ野川先生に、口をきいて欲しい、とでも頼まれたんだろう。」
「! 野川先生は…! …断じてそんな方ではありません。…正直に申しますと、野川先生から、御連絡申し上げる様にとお叱りを受けたんです。橘先生と私が、今後良い関係でいられなくなるといけないから、と…。」
「そら見ろやっぱり。」
「ですからっ、そう言う意味ではなく…!」
「わかったわかった。耳が痛いから抑えなさい。」
「…。」
いい様にからかわれ、真意を試され、久々の疲れを覚えて、そっと、聞かれないよう溜め息を吐いた。
「橘先生、それで、御用向きは一体…?」
橘が、こちらからの電話を気にしてかけ直してきたりする筈はない。
「ん? あぁ。…お前が見つけてきた助手の二人だがなぁ…。何ともつまらん。」
案の定、愚痴を語り始めた。
「つまらないとは。」
冷めた調子で受けると、大げさに溜め息が帰ってきた。
「『良いですね!』 と『流石です!』しか言わない。この前なんて明らかな間違いがあったのに、おかしいと言わなかった。お前と違って、役に立たん。」
…予想通りと言えば予想通りだった。
言えば言ったで、不機嫌になる人だから匙加減も難しい。
『明らかな間違い』…、わざとに決まっている。
「責任は感じています。大変申し訳なくも思っていますが…、役に立たない、だなんてそんな筈はありません。それなら私だって、何度先生に『役立たず』と言われた事か…。」
「責任は、感じてるだけじゃ意味がない。だろう?」
「! …申し訳ありません…。」
謝って何の助けになる、と言いながら小さく鼻を鳴らした。
何とも言えない不機嫌そうな顔が、目に浮かぶ様だった。
「お前、私が今年度から名誉教授になった事は?」
「え!? いえ…! おめでとうございます!」
何だやっぱり知らなかったのか、と拗ねた様に言ったかと思うと、
「黒木。」
と、急に改まったキッパリとした調子で切り出した。
「実は、来年の9月から、オックスフォードへ客員が決まったんだ。関東国際には籍を置いたままでな。」
「…! 本当ですかッ?! っそれは…、お、おめでとうございます!」
英文学との比較が専門の橘は、予てから客員の立場でイギリスへ渡る事を希望していた。
自分の事の様に喜びに胸が震え、舞い上がり過ぎて、言葉につかえる。
そのための名誉教授か、と合点がいった。
「個人的に雇ってやるから、お前も来なさい。」
…?
「…え?」
「付いて来なさい。」
橘は、何を。
「イギリスで英文学、やりたいと言ってたじゃないか。シェイクスピアも、やり放題だぞ。」
明るくてにこやかな声。
橘は、こちらに対して切り札を切ったつもりで、すっかり期待をしている様だ。
しかし、我ながら不思議だが、凪いだ心は、いかにも静かだった。
「申し訳ありません、橘先生。私はもう清明を…、」
「即答は許さん。」
橘の声が一気に不機嫌になったが、構わず続けた。
「清明を離れるつもりはありません。」
「許さんと言っただろう…!」
怒っている。
眉を顰め、鋭い目をして、顎を心持ち突き出す様にしながら上から見下ろす様にして。
橘に叱られる時はいつもそうだった、とその顔を思い浮かべた。
苦り切った溜め息をつくのが耳に入って、一層罪の意識が膨らむ。
罪悪感はあった。
しかし、英文学に対する未練は、いくら探しても見当たらなかった。
「この夏二カ月間、準備のために向こうに滞在する予定だ。何も言わず、お前も手伝いに来てくれないか。そうしてみてから決めても遅くはないだろう。」
まず普通に考えて、無理だ、と思った。
夏休みが、研究する者にとっていかに貴重か。
しかし、そんなことは橘も、百も承知だ。
「こんな言い方はしたくないが、お前にはイエスと言う義務がある筈だぞ。」
親不孝者、と言う言葉を、今飲み込んだのだろうか。
「橘先生…。」
「8月の2週間。」
「…1週間。」
「10日だ。」
「…っ…承知しました。」
溜め息を堪えて答えた。
やむを得ないだろう。
橘には自分の手伝いなど必要ない筈で。
全ては、自分をもう一度戻って来させるための最後の手段だと思われた。
野川先生に話をつけてやろうか、と言う提案を丁重に断ると、
「じゃあ、頼んだぞ。」
そう言って、電話は切れた。
眉間を険しくしたまま、呆然と、掌の中の携帯電話を眺める。
…意外だ。
黒木は、驚いてしばらく動けずにいた。
橘は、自分などいなくても全く気にも留めないと思っていたのに。
ただこうして、もう一度戻って来て欲しい様な事を言われるのは、素直に嬉しい事だと思った。
ーー貴方の代わりが、そう簡単に見つかるとは思えません。
野川がくれた言葉が蘇り、その時と同じ幸福感と、その倍深い罪悪感を感じた。
ーーもう野川先生のご不興をかったんだろう?
何も知らないくせに、言葉面だけは妙に核心を突いてくる恩師を恨めしく思い、苦々しく眉を寄せた。
それでも自分を呼び戻すため、今日、取って置きの切り札を切ってくれた橘には、感謝の気持ちで一杯だ。
しかし…あんなに行きたいと思っていたくせに、我ながら本当に不思議だが…、今清明にいたいと思っているこの心には、一点の曇りもなかった。
考えるまでもなく、この夏休みは貴重だ。
実際、共同研究を来年末の紀要に無事に出せるとして、締め切りは同年の6月末。
先程聞いた野川の抱える論文の数も考えると、正直10日間もの夏のボランティアは痛いロスと言えた。
しかしながら…橘の要請を断れないのも、また事実で。
加えて、どういうタイミングで野川に説明するかと言う事も、頭の痛い問題だった。
ーー裏切り者は、裏切ると言うしね。
忌々しくも國廣の言葉まで思い出した。
だが確かに、伝え方や時期を誤れば…、きっと野川に、また嫌な思いをさせる事になる。
出来るだけ速やかに伝えなくてはならない。
ただ一つ不安なのは…。
野川から、もう要らない、と言われるかも知れないという事だ。
「…!」
胸の痛みに耐えかねて、黒木は思わず息を詰め、顔を歪ませた。
電話が来る前、一縷の望みを見出だせた気もしたが、それもただの希望的観測に過ぎない。
今はただ、(驚くべき事に)学術振興会賞に推すと言ってくれた、野川の期待に応えられるよう、2ヶ月後の締め切りまでにしっかりと詰めをやるより他に道はない。
一つ、大きく深呼吸をして、まだジクジクと痛む胸をごまかす様に腕時計を確認した。
…こんな気持ちでも、否応なしに約束の時間は迫る。
黒木は、今夜のこの空の様な曇った瞳をして、憂鬱な気持ちで、キーを回した。
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