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心奪う人2
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心地よい温もりに、自然と頬を寄せた。
サラリとした暖かい手が、限りなく優しく頬を撫でる。
記憶の彼方の、遠く懐かしい日々を思い出させるその感触は、自分の中に根を張り続ける喪失感を揺り起こす元凶だ。
徐々に頭が起きて、おかしいと思い始めはしたが、疲れた身体は鈍く、思考とは裏腹なゆっくりとした動きで、やっと瞼を上げた。
「? 黒木、先生…? ……? …ッ!?」
ガバッと起き上がり、優しい温もりから慌てて離れ、狭い長椅子の上、壁ギリギリまで距離を取った。
驚き立ち上がって見下ろす優しい眼差し…。
悪い夢の中でずっと探していた人が、今目の前で心配そうな顔を向けている。
身体中そっと触れて、その身を現実のものと確かめたい衝動に駆られ、身体が凍りついた様に動けなくなった。
会いたい、そう求めて仕方なかったのだと思い知らされながら、背中から腹から押し寄せるうねりを必死で堪える。
「…野川先生…?」
ハッとして俯いた。
この波に、今流されるわけにはいかない。
どうしても、自分は。
「…何故ここに…?」
少しでも気を落ち着けようと靴を履きながら、つい自己の焦燥感に苛立ち、冷たい声で突き放す。
黒木は一瞬ビクリと慄いたかと思うと、長机に持っていた荷物を置いて経緯を説明し始めた。
「…事務局で、先生宛のお荷物を預かってきたんです。」
「出入り禁止だと言った筈ですが。」
緊張して、硬くなった声を、都合よく思った。
「も、申し訳ありません。でも、在室の札が掛かっているのに御返事が無くて、心配で…っ」
また心配を掛けてしまったのか、と申し訳ない気持ちになって苦い息を吐いたが、落ち込んでいる時ではなかった。
「…寝ているのが分かったら、速やかに退室すべきでしょう。」
「そ、れは…、仰る通りですが…。」
「ですが、何です。」
黒木は、苦しげに眉根を寄せ、一瞬躊躇って。
しかし、次の瞬間には、意を決する様に瞳を強くして言った。
「…出て行こうとした時、呼ばれた様な気がして…。」
野川はその言葉に、しまった、と内心無様に慌てた。
聞かないまま、追い出してしまえば良かったものを、なぜ訊してしまったのか。
「…っ、呼ばれた…?」
冷房のあまり効いていなかった室内の空気が、一瞬グッと冷えた様な心持ちがした。
「ええ。それで振り返ったら、先生が、酷く魘されているご様子で…。」
「…。」
「丁度…寝返りを打とうとなさって、そのままだと長椅子から落ちると思い、慌ててお止めしました。」
寝ていたのだから当たり前だが、全く…うっすらとも、記憶には残っていない。
確かに夢は先程も見た。
あれからイギリスではまたテロがあって…、夢は酷くなる一方で。
飛行機が落ちたり、テロに遭ったり、夢も最近は色々だが。
だからと言って、まさか寝言で名前を呼ぶなんてそんな事、あり得ない。
…あってはならない。
「…心配をかけて、すみませんでした。私は大丈夫ですから、もう行って下さい。」
「野川先生、お話ししたい事が、」
「それは。…仕事の話ですか?」
余裕なく黒木の言葉を遮り、質問を返した。
「…いえ。でもっ…!」
「では出て行って下さい。また時と場所を改めて話しましょう。」
これ以上は、きっと、もう。
「っ野川先生! このままには出来ません。夢の中で私を呼び止めたのは貴方だ。」
「…! …っ確か、さっきは呼ばれた様な気がして、と。…呼ばれたとは言いませんでしたよね?」
黒木は、悔しげに顔を顰めた。
「いいえ。確かに呼ばれました。“黒木先生”と。」
はったりを押し通そうとする者同士で言い争っている今の状況に、思わず苦笑を浮かべ、わざとらしく溜め息を吐いた。
「貴方に…、関係のない夢を見ていた私が、貴方の名前を呼んだりする筈が無いでしょう。気のせいです。」
「…っ野川先生っ! 貴方は、私を…ッ!」
“RrRrRrRr…”
二人同時に、内線のコール音にビクッと肩を引きつらせた。
助かった、こちらはそう思ったが、黒木は違うだろう。
気をとられている間に、ツカツカと歩み寄り、軽く腕を押して入口へと追い詰め、もう一言も言わせまいと扉を開けた。
「さあ、もう行って下さい。電話に出なくては。」
「野川先生っ…。」
「イギリスから戻った後も出入り禁止になりたいのですか? 私は構いませんが。」
人の好い黒木は、まともに口もきけないまま、結局あっさりと追い出されてくれた。
ドアは閉まると同時に、トン、と1つ寂し気な音を立てた。
愛しい姿を隔てた扉を切なく見つめている間も、電話の音は鳴り止みそうに無い。
今はそれが、いつもよりやけにけたたましい音に感じられる。
また傷付けた痛みと、この気持ちを隠し切れなかったという暗い不安と、全てに自己嫌悪する思いとで、大きく溜め息を吐き、受話器を上げた。
「…お待たせしました。野川です。」
そう言って出た瞬間、気まずそうな声が聞こえてきた。
「お疲れ様です、野川さん。藤沢です。」
「藤沢先生…、お疲れ様です。」
こんな時間に藤沢から電話なんて、珍しい事もあるものだ。しかも、学長室の番号から。
いつもは研究棟にいて、本館の学長室には余り行かない人である。
胸に残る憂鬱をそのままに、ささやかな笑顔を作りながら、何か御用でしょうか、と首を傾げて聞いた。
金曜日、午後7時15分。
何気無くカレンダーを覗いて、そういえば今日は七夕だ、と沈んだ気分に合わない事をぼんやり考えた。
「元は私のお客様なんですが、どうしても、貴方に会いたいと仰る方がいらしてね。」
「お客様、ですか?」
学長を訪ねてきた来客が、アポも無く、ついでに。
若いとかひよっことか、言われる言葉は様々だが、こうもあからさまに失礼をされるというのは珍しく、いっそ清々しいと思いながら、何の気なしに尋ねた。
「お名前は、何と仰る方でしょう?」
そう聞いて、答えが返ってきた瞬間、野川は衝撃に、耳を疑った。
「…もう一度…、お願い出来ますか…?」
「関東国際の、橘 名誉教授、です。」
問い直す声が少し掠れてしまったが、それくらいは勘弁してもらいたかった。
一瞬忘れていた息を、そっと吸い込む。
鼓動が、凄まじい速さで乱れ打っていた。
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