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歓迎会の前に
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11月25日。
あと5日ほどで師走を迎える今日は、これから黒木の歓迎会である。
先に照明を落とした研究室は、終いかけの夕暮れ色に染まっている。
高齢の教員が多い国文学科の夜は早い。そろそろ出なければ。
小さな洗面台の鏡を覗き、申し訳程度に身だしなみを確認して、いつも室では緩めているネクタイも締め直した。
このところ朝夕は冷えるため、濃紺のスーツの上着を羽織って、腕には灰色のハーフコートも掛けた。
結局、学科の行きつけの和食料亭で行なわれることになった宴会は、大学最寄の駅から18時に送迎バスが出る手筈となっている。
今は17時20分過ぎ。早過ぎるわけでもなく、それでいて幹事として一番乗り出来そうでもある丁度いい時間。
鞄を手にして何となく深呼吸をし、ドアを開けた。
「…!」
そこには思いつめた様に佇む黒木がいた。目を奪われて見つめる。
一段とイケメンだ、と野川は思った。
今日は焦げ茶の三つ揃いを着ている。ワイシャツに燕脂のネクタイ、特に黒のハーフトレンチが、背の高い彼にとても似合っていた。
いつから待っていたのだろう。ずっと立って、ここで。
「お疲れ様です。」
黒木が先に言った。
同じ言葉を返し 、あとは沈黙する。一瞬遅れたのは、断じて見惚れていたからではない。
あの日、初出勤で昼食に同席してから、毎日の様に自分の前に現れては、『共同研究したい』と一生懸命アピールしてくる黒木に対し、丁重に断り続けるのにも疲れ、最近、1人の時は黒木をできるだけ避ける様にしていたのだ。
だが…、こんな風に待ち伏せされては避けようもない。
彼は、口を開けば『野川先生のお考えにもっと触れたい』だの、『もっとそばで勉強させてください』だのと、まるで自分を何かの芸事の師匠の様に言うが、正直言って、こちらのお考えなんてわかりきったこと。
ただただ放っておいて欲しい、の一言に尽きる。
「駅までご一緒したいのですが、よろしいでしょうか?」
「ええ、…もちろんです。是非。」
ほとんど反射的に微笑みを浮かべてそう返すと、何故か黒木は顔を曇らせた。
それを眺めながら、また今日はどんな風に共同研究を口説かれるのか、と憂えていたが。
「……。」
駅までの道のりは、時間にして20分弱。
その半分近くを過ぎても、黒木は何も言おうとせず、自らのそれよりも少し小さい野川の歩幅に合わせる様にしながら、ただひたすら前を見据えて歩いた。
不思議に思いながらも、野川も触れず、ここまで無言で肩を並べたまま…。
「野川先生は、『小倉百人一首』はお好きですか?」
百人一首が何だというのだろう、藪から棒に。
「? ええ、…まあ、好きですが。」
何を意図しての質問か分からないまま、正直に答えた。
「私も大好きなのですが…。このところ、色々と考えることが多くて、恋の歌は、空々しく思えてしまいます。」
「空々しく、ですか。」
何を言われるかとつい身構えた。
相変わらず、目を合わせることもなく駅に向かって並んで歩きながら、妙な緊張感が生まれた。
「歌を詠むというのは、結局は余裕のある振る舞いだと思うのです。体裁を整え、技巧を凝らし、持っている知識も使って、人の心を掴もうとする。」
「なるほど、確かに一理あります。でも、それは現代でも意識せずに誰もがしている事だと思いますよ。あの頃の文化が、歌であったと言うだけで。」
「もちろんそうでしょうが、しかし、歌のうまさは、必ずしも思いの強さに比例するわけではありませんよね?」
「それは、確かに。…そうですね。」
何となく、次に言われる言葉が見えたような気がした。
「私には、野川先生に伝えるべき言葉が見つかりません。平安の歌人なら見つけられるのでしょうか?」
「…そうきましたか。」
ちょうど、良いか悪いか駅前の大通りの信号が赤になり、人混みに紛れて立ち止まる。
野川はここで初めて黒木に向き直り、その目を見上げた。
「…?」
そして驚いて、開いた口を今一度閉じてしまった。
黒木は、何とも悲痛な表情でそこにいて、同じくこちらをじっと見つめていた。
やはり不思議に思う。
彼が何故こんなにも自分に執着をするのかが、どうしてもわからない。
こんな人間にかまけていないで、さっさと他を当たった方がずっと良いに決まっているのに。
責められている気分になり、心が沈んだ。
信号が再び青になって、人々の往来が戻ると、結局何も言わぬまま、駅に到着してしまった。
やがて来たバスの運転手に、お世話になります、と声をかけながら、野川は釈然としない気持ちであった。
言葉を探しているというなら、こちらだって同じだ。
何故、そんなに傷ついた顔をして見つめられなければならないのか。
だから。…傷つけるのが。嫌だから。
…こちらは丁重に断り続けているというのに。
「野川先生には、私がいかに堅い決意か、お分かりになるはずです。」
「…?」
無言で顎を引く仕草で先を促す。
「貴方が断り続けるのと同じくらいの強さで、私も貴方と研究することを決心しているからです。」
「なるほど、確かに…それは手強いですね。」
受け流すように言うと、黒木が目を伏せた。
その色はますます悲しみを増し、罪悪感が、一層野川の胸を苛んだ。
そして、今まで湛えていた笑みをついに収めた。
一体何だと言うのだ。
こちらはただ、‘研究は個人的な作業である’、‘共同研究は受けない’という、自分の平時からの主張を通したいだけだ。
互いの立場は同じ。ただし…どこまでも決して相容れない真反対にあるが。
「野川先生、…共同研究を諦める事は出来ませんが、でも…それはひとまず脇へ置いて、私は、野川先生に一研究者として信頼される存在になりたいのです。研究者同士として、何でも情報交換できるような関係に、です。」
わからない。わからない事だらけだ。
彼は何故、何に追い詰められてこんなにも苦しげな顔を。
「…我々は、すでにそういう関係ではありませんか。」
相手は驚き、また傷ついたように口を噤んだ。言葉を探すように瞳を揺らす。
「私にチャンスを下さい。」
「チャンスとは…、どういう意味でしょう?」
「来月早々に、大阪で学会がありますよね。先生も参加なさるとか?」
「ええ、シンポジウムに行くだけで、発表はしませんが。」
駅前の雑踏の中、真剣な表情で問答するのは、我ながら滑稽な事のように思う。しかし、もうこの話に着地点を見出したかった。
「同行する許可を頂きたいのです。」
…まったく理解に苦しむ。
「会場には、一般の方も自由に入れます。旅費関係の許可という事なら、私ではなく、藤沢学科長に仰ってください。」
「そうではなく。」
「…?」
黒木は、自分の気を落ち着けるように、少し深く息をした。
「もちろん、藤沢先生からは許可をいただきます。その前に…。…同じ新幹線の隣の席で、往復乗り合わせても、苦痛ではありませんか?」
「ええ、もちろんです。」
また、いつも通りの微笑み。
黒木は眉根をぎゅっと寄せて、詰めていた呼吸を一気に解いた。
「では、チケットの手配は私がしても?」
「ええ、構いません。貴方にお任せします。」
何とも言えない、硬い空気がこの辺りを包んでいる。
野川は心の中で溜息を吐いた。
こんなに人通りの多い場所でも、この異様な雰囲気が周囲に伝わるらしく、先ほどからチラチラと視線を投げられている。
「お疲れ様です。」
この場のムードを断ち切ってにこやかな声がした。
慌てて振り返ると、続いて到着した三崎が、その声通りの柔らかな笑顔で立っていた。
ハッとして、二人それぞれに、お疲れ様です、と応える。
時計を見れば、もう17時50分を回るかという頃。
横断歩道の向こう側に目をやれば、そこにはもう教授陣がほぼ揃っていると見えた。
「何かしら言い争っていましたよね? せめて、バスに乗ってからすればいいのに。」
すごく目立っていましたよ、と三崎はにこにこして言った。
「お二人とも、見目麗しくて目を引きますからね。特に黒木さんは、背も高いから。」
どこまでも楽しげに言って、ではお先に、とバスに乗り込んだ。
「貴方も、もう乗ってください。」
そうは言ったが、今夜歓迎される主役の身としては、先に乗り込むのも気がひけるのだろう。
いえ、と気まずそうに言って、野川と向かい合わせになる形で乗降口の傍に立った。
…先ほどの黒木の何故か驚いた表情と、悲しげで辛そうな表情とがちらついて、何とも落ち着かない気持ちだ。
教員が揃い、バスの空いた席に結局並んで座る羽目になっても、当然気まずく、二人して押し黙ったまま。
石倉と藤沢が、その様子に苦笑するのが目の端に映った。
しかしながら、野川もこれ以上どうフォローして良いのか分からず、また、自分の中の罪の意識にも疲れを感じて、背もたれに身を投げ、軽く目を閉じ、景色を遮断したのだった。
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