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天使が飛んだ日
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その日は朝から雪が降っていた。
まだ積もるほどではなく、地面に落ちては溶けて消えていく。寒さが一段と強くなり、ストーブを毎朝付けるようになった。
起きたらはとちゃんが隣にいなくて、押入れで寝たのかな、風邪ひいちゃう、と確認してもいなくて、焦って探し回ると空っぽの浴槽の中に体育座りで入っていた。
どうしたの、と問いかけると、
「おはなししてた」
と虚ろな顔で答える。
どうやら、風呂場で亡くなったというおばあちゃんの姿が見えてて、さっきからぶつぶつと言っているのが会話、であるらしい。
幻覚や幻聴があって、それに疑問を持たず反応してしまう、というのは、とても恐ろしく思える。
はとちゃんが、お母さんのいた妄想の世界に行こうとしているみたいだ。
「おばあちゃんに、お母さんをよんでください、ってたのんでいます」
と言うはとちゃんの身体はすっかり冷え切り、抱きしめて全身をさする。少しやせてしまったような気がする。
「病院行ったばっかりだけどさ、俺と一緒にまた先生に診てもらお? ね?」
はとちゃんは、俺の言葉がとても悲しそうに眉を下げ、肩を落とす。
「やだよ……先生、ぼくのこと、入院させたいみたいなんだもん……そしたら……」
「そしたら、毎日電話するよ。お見舞いもお休みには必ず行く。ね、大坪さんも言ってたよ、時々入院して、しっかり休むんだ。入院は負けじゃないし、お別れでもない。長く一緒にいるための、大事な、休憩だよ」
なんとなく響いてなさそうな表情で、はとちゃんはうん、うん、と返事をした。
自転車からバス通勤に切り替えて少し早くなった出勤時間、いってきますのキスをして、玄関のドアを閉める時に見たはとちゃんは、パジャマのまま力なく手を振っていた。
それが、最後に見たはとちゃんの姿だった。
帰宅して、空いたままのドアに気がつくと、まず脳裏をよぎったのは強盗だった。
ストーブが付いたままで、むむがストーブの前に陣取り丸くなっている。
押入れが乱れ、引っ越しの時に使ったでかいスーツケースが消えている。もしもの時のお金も封筒ごと無い! 通帳は、通帳は無事。
他に何か、と居間に戻ると、
結婚写真を入れた写真立てと、遺灰の詰まった骨壺が無いことに気がつく。
他人には価値の無い物を持ち去るだろうか?
こたつの上に置かれたはとちゃんの携帯電話とメモを見つけ、どうして、手帳が無かったから外出していて、なのになんで携帯がここに、おぞましい予感に震えながら、目玉が揺れてうまく読めない、怖い、しかしそれでも通読する。
これいじょう、しゅうとさんにめいわくかけたくないです。
大好きだから、愛してるから、ぼくはとおくへ行かなきゃいけないんです。
しあわせでした。
しあわせになってください。
むむをよろしくね。
とおく?
好きならずっと一緒に居ればいいのに、なんで、これは、
置き手紙?
はとちゃんの携帯の検索履歴を確認すると、家出、方法、新幹線、乗り方、あと愛という字の書き方を調べた形跡があった。
思えば、その着想に至るヒントみたいなものはいくつもあった。
はとちゃんはかつて飛び降り、自殺未遂みたいなことをしていたらしいこと。なりを潜めていたが、突発的な行動をする要素はあった。
白妙さんみたいな、失踪癖のある人物との交流。家出してきたうちの桂太からも話を聞いているだろう。影響はあるはずだ。
新幹線や夜行バス、遠くへと行ける交通機関に一緒に乗り、乗り方を知ったこと。何を使えば遠くへ行けるかが分からなければ、そもそも行こうとしないだろう。
そして、精神的に不安定であること。
家を出て、辺りを見回して、粉雪が舞う夜空にはとちゃんの名前を叫んだ。
返事はない。
はとちゃんは、失踪した。
急いで仙台駅へ行き、はとちゃんの目撃情報を集めた。
昼頃、みどりの窓口で障害者割引を利用して新幹線のチケットを購入していたという話を拾う。
50代くらいの男性と一緒で、男性と一緒に盛岡行きを買い、男性に何度もありがとうと言っていたという。
その辺にいる人に話しかけて助けて貰ったのか、それとも実は職場で会う同僚、年配の方だったりするのだろうか?
目撃情報からはとちゃんは、俺が買ってあげた桃色のファーコートを着て、どうやら女装の状態でスーツケースを引いていたらしい。
部屋からは薬や、俺があげた箱入りの花なども無くなっていた。残薬も無いのでおそらく1か月分程度のストックはある。
薬が無くなったらどうなっちゃうんだ、あんな状態で……。
警察に行方不明になったことを伝え、捜索願を出した。
自分のところにある情報はなるべく伝えたが、はとちゃんが犯した罪のことを知ると、対応してくれた警察官が険しい表情を浮かべた。
突発的に家出する状態なら、突発的に犯罪をする危険が高い、と判断されているのか。
家の近所の人に聞いて回ったが、目撃情報は拾えなかった。コープにも寄っていないそうだ。
病院も、はとちゃんの職場にも聞いてみたが、有力な情報はない。計画立てていたなら何か話しているかも、と考えたが、そうではないらしい。
盛岡に行った後の情報が欲しくて、仕事休みに自分で盛岡に行って、こんな人を見ませんでしたか、と自作のビラを配った。
すると、盛岡駅の中にあるラーメン屋で若い男性と海鮮ラーメンを食べていた、という店員の情報を得られた。男はバスの待ち時間を気にしていて、はとちゃんをしきりに誘っていたという。
バスの行き先までは分からないとのことだが、とにかくどうやらはとちゃんはひとりではない。新幹線の切符の時の人とは別人のようだから、行き当たりばったりに人に助けを求めている可能性が高まった。
盛岡での目撃情報はあるが、人間行ったことのあるところを目指したいはず、と大坪さんのところへ行ってはいないか連絡を取った。
「……僕のところには情報が上がってきていません。住人が姿を見かけたなら、おそらく報告してくれるでしょうから、来ていないのでしょう」
「そうですか……」
「いなくなって、何日くらい経過していますか?」
「……1週間です」
「……僕は今から、少しシビアなことも言いますから、嫌なら電話をいつでも切ってください。……昭知くんには路上生活歴がありません。うちで言えば白妙さんのような、寒さをしのぐノウハウや、炊き出しの情報を得る人脈みたいなものはありません。東北の冬です。彼が誰かのところに身を寄せていない限り、その……凍死の危険があります」
携帯を握りしめる手のひらがじっとりと汗をかく。考えたくない想像で、気分が悪い。
「分かっています」
「えっと……変死体が発見された場合、手術痕のような分かりやすい特徴があると、見つかりやすいですから、おそらくは……彼は彼のスキルで、人を頼ることが出来ているのではないか、と想像出来ます」
はとちゃんの目撃情報は、いつも誰かと一緒だった。今はどうしてる。寒い思いをしてはいないか。ごはんは食べられているか。
「……僕は、彼のことも心配ですが、あなたのことが心配ですよ」
そう言われて、俺は自分の身体に満ちた緊張の糸がふっと緩んだのを感じた。
なぜ、
どうして、
会いたい、寂しい、
俺が何か悪いこと言ったのかな、
俺がひとりよがりだったせいかな、
嫌われたのかな?
意識しないようにしていた感情が溢れて、急に胸が苦しくなった。苦しいことに、気が付かないようにしていた。
涙が込み上げてきて、たまらず電話を切ろうとしたが、大坪さんはそれを制して、
「あなたの気持ちを教えてください。なんでもいいです。大丈夫、不安で当然ですから」
そんなふうに言うので、自分の中にある感情を受け止めてもらった。
泣いて訳の分からないであろう話を、辛抱強く相槌を打ちながら聞いてくれる。
「……仕事柄、変死体というものになってしまった方の、最期に会った人間、最期に電話した人間というものになって……警察の方で確認をすることがあるんです。仕事ですから、つとめて冷静に振る舞いますが、それでも僕は動揺するし、悲しみを感じます。
救えなかったのか、と無力感を覚える。
だけど、僕はあなたが大変なことをやってきたこと、しっかり分かっていますよ。……あなたのことは誰も責めません。あなたには、彼を忘れずに生きる権利も、忘れて生きる権利もあります」
「はとちゃん無しで生きていけるなんて、そんなの生きてもいないです。俺にはあの人しかいない。いない……」
結局、大坪さんの仕事の都合が悪くなるまで、電話で泣き言を繰り返した。
仙台の街並みは、クリスマスのイルミネーションでキラキラと美しい。
定禅寺通りの光のページェント、電飾で飾られた街路樹の下にカップルがいくつもいて、しきりに写真を撮っている。
はとちゃんと見たかった。
はとちゃんと手を繋いで歩きたかった。
いや、来年一緒に見たらいいじゃないか。
実現可能性があやふやな希望を、それでも持とうとしなければ、潰れてしまいそうに心細かった。
何もかもが疎ましい。
はとちゃん無しで、何食わぬ顔で回る地球のすべてが。
仕事帰り、ダースで買ったビールを開け、安いチキンをレンジで温めて、死んだ目でぼうっとテレビを観ていた。
はとちゃんが帰って来てはいないか、いつもいつもドアを開ける時には期待してしまうのが、辛い。
ただいまのキスがしたい。
おかえりのキスが欲しい。
触れたい。撫でたい。寂しい。寂しい。
主人を探してキョロキョロすることが増えたむむが、仕方ねえ何かくれよ、と俺を見つめている。
肉を少し分けて口元へやると、ざらざらした舌でぺろぺろ指ごとなめてくる。身体を撫でると、温かくて柔らかい手触りに癒やされる。
ひとりきりじゃなく、むむが居てくれることはひとつの救いだった。
がらんどうの部屋じゃなく、養うべき猫がいて、はとちゃんから託されたのだ。いつ帰ってきてもいいように、世話をしなきゃ。
寂しい口元にビールの飲み口を付け、酔った頭の中ではとちゃんと電話した去年のことを思い出す。
行かないでと言ったのに、天使は飛んでいってしまった。
はとちゃんがくれたヒイラギの鉢植えに、今年も可憐な白い花が咲いていた。
そのことを伝えたいひとがいない。
いない。
無理だよ。
幸せになんて、なれっこないよ。
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