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はじまり
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ミシェル少年は九歳にして巧みにピアノを弾きこなし、木琴では複雑な舞曲を奏でた。
たぐいまれなボーイソプラノの持ち主でもあり、もし彼が当たり前の大きさの少年だったら、聖歌隊から誘いがきたかもしれない。
しかし彼の問題は、いまだかつて誰も見たことがないほど小さいということだった。
あまり小さいので、調理台に横たえて肉切り包丁で胴を真っ二つにすることもできただろう。
外に出れば悪がきどもに広場の噴水に突き落とされ、あやうく溺死しかけたこともあった。
そんなわけでミシェルは、一度も学校に行ったことがないし、行けとも言われなかった。
彼は物心ついた頃から、酒場の二階で暮らしていた。
伝え聞いたところによると、彼の母ははす向かいの宿屋に逗留していた十四歳の娼婦であった。
彼女も小さな女だったのかというとそんなことはない。
むしろ早熟で、二十歳の女と並んでも見劣りしないほどだったという。
父親はわからないが、母親が小男と一緒にいるのを見かけたという者もなかった。
そうしてみると彼は、外見上はまったく何の変哲もない女と男によって生を受けたことになる。
ではどうして自分はこんなに小さいのか、とミシェルは何度となく頭をひねったが、それは誰にも解けない謎だった。
母の恋敵に呪いをかけられたのだという者もあれば、妖精が赤ん坊をさらって代わりに自分の子を置いていったのだという者もいた。
酒場の主人は、妊娠中にジンを飲みすぎたせいだ、と言っていた。
ともかくミシェルの母は、自分の赤ん坊が鶏卵ほどの大きさしかないのを見るにつけ、どのみち育つはずがないと投げやりな心境になってきたらしい。
息子を寝台の上に置き去りにしたまま情夫と旅行に出かけ、それきり戻ってこなかった。
宿の女主人が泣き声を聞きつけて拾い上げ、山羊の乳をやって世話したところ、このちっぽけな赤ん坊がなかなかどうしてしたたかに生きながらえた。
年老いた女主人は彼をたいそうかわいがり、どこへ行くにもエプロンのポケットに入れていたという。
やがてこの老女が死ぬと、酒場の主人が彼を引き取り、面倒みることに決めたのだった。
酒場の主人は卵黄を混ぜたミルクや、レバーペーストを与えてミシェルを養った。
ミシェルは並の子供よりはるかに速い速度で成長した。
二歳になる頃にはもう、酒場に来る芸人たちを見よう見まねで、歌ったり踊ったりしていた。
酒場の主人は、彼のために音楽の家庭教師をやとった。
木琴やピアノは、蚤の市で、子供用の玩具の中からなるべく精巧で音のいいのを選んで買い与えた。
服は、女給にはぎれで縫ってもらった丈の長い簡素なシャツに、冬は古毛布のへりで作ったガウンなどを合わせていた。
しかしいよいよ店に下りてきて客の前で演奏するようになると、主人が仕立て屋を呼んで、洒落た上着に、ズボンとシャツ、ベストなどを作らせた。
主人の見立てどおり、ミシェルは酒場の人気者になった。
彼は実の親には捨てられたかもしれないが、盛り場の陽気な客たちに愛されて育った。
彼が歌ったり演奏したりすると、誰もが喝采し、ピアノの上にチップを置いてくれた。
ミシェルはいまや一人前の演奏家といってもよかった。
異常に成長が早く、ふとした後ろ姿などはもういっぱしの青年のように見える。
しかしあいかわらず小さいので、身を屈めずにテーブルの下を歩くことができた。
ちょうど、テリア犬が後ろ足で立ち上がった程度の背丈なのである。
酒場の主人が忙しいので、ふだんは住み込みの若い男がミシェルの世話をしていた。
この男は酒場の主人の腹違いの弟で、いささか変わり者と見られていた。
もつれた黒い縮れ毛を肩まで伸ばし、いつも無精ひげを生やして、やや前かがみになって歩く。
以前は物乞い同然の放浪生活を送っていたが、数年前にふらりと兄を頼ってやってきて、店を手伝うようになったのだ。
それまでミシェルは女給の部屋で寝起きし、自力でできないことがあると彼女たちにやってもらっていた。
しかし主人の弟が同居するようになると、ミシェルも彼の部屋に移された。
というのもミシェルが、いつまでも女たちと一緒では気まずいと言い出したので、それなら弟の部屋で暮らせばいい、ということになったのである。
この弟はアルマンといった。
ミシェルは彼を召使のごとく走らせ、遠慮なくものを頼む。
アルマンは怒るでもなく、かえって喜々として従う。
はたから見ると、大のおとなが自分よりはるかに小さな、それも年少のミシェルにいいようにこき使われている姿が奇妙である。
そのため周囲は、この男少々頭が悪いのではないか、と思っていた。
実際アルマンには妙に臆病なところがあって、客の前のみならず、とかく人前ではおどおどとしていた。
人を信用しない野良犬のようなところがあった。
親しい友人はなく、恋人も情婦もいない。
彼が親しく口をきいたり、屈託なく笑ったりするのは、唯一ミシェルの前だけだった。
もしもミシェルが一人前の大きさの少年だったら、やはり親しくならなかったかもしれない。
しかしミシェルが小さいために、昆虫に夢中になる少年のような愛着を持って世話するのを喜んでいた。
それでいて、利発で誰とも仲良くなれるミシェルが時に嫉ましく、時には自分より偉いもののように見えたりもするのだった。
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