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脱出
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目を覚ますと、食卓の上に置かれた金盥の中に横たえられていた。
身体がすっかりからっぽになった気がした。
たらいには湯が張ってあり、オレンジの輪切りがいくつか浮かんでいた。
ふちにのせられた頭の下には、小さな海綿があててある。
睫毛をもう少しだけ持ち上げると、三人がテーブルのまわりに立っていた。
誰かがグラスにワインを注いでいる。
まだ誰も、ミシェルが意識を回復したことに気付いていない。
ミシェルは寝たふりをしたまま、薄目をあけて耳を傾けた。
「……おまえの負けは明らかだ。潔く金を払いたまえよ」
ブランシュが言っている。
「確かに昨夜は、彼が女かもしれないと言ったが――」
これはガストンの声だ。
「おまえは彼が男装の少女である方に五フラン賭けると断言した」
「そういうあんたはリスの雄雌がすぐにわかるっていうのか」
「彼はリスではない」
「そんなことより」
フェリクスの声が二人の会話に割り込んだ。
「はやく彼をあの酒場に送り届けないと。きっと家の人が心配してるよ」
「おまえはそのように弱腰だからいつも愛人をとり逃がすのだ」
「それとこれと何の関係があるの?」
「わたしは彼を帰すつもりなどない」
ブランシュがあまりにもきっぱりと言い切ったので、他の二人は一瞬、黙り込んだ。
「でも、酒場の主人が――」
「誰が何と言おうと、彼は帰さない」
「ほしくなっちゃったんだね」
フェリクスがため息まじりに言う。
「たしかに彼は自分からここへ遊びに来たけれど、これ以上引き止めたら人攫いと思われる。また訴訟騒ぎになるよ、ブランシュ」
「ただの遊びだったはずだろう」
ガストンも言う。
「一生話の種になるさ、小妖精を犯した、ってな。もう充分じゃないか。せいぜい金でも持たせて帰してやれよ」
「遊びなどとは、言語道断な話だ。おまえたちは彼が三人の男に弄ばれたあげく、小金をもらって嬉々として家に戻るとでも言うのか? いいや、彼は抗うことが無駄だと思い知ったはずだ。彼はわたしのものになる。彼もそれを望むだろう」
「なんでそう言い切れる?」
「わたしは愛人にたいして気前のいい男だよ。一流の職人を探して、彼によりよいピアノをあつらえてやろう。彼の欲しがる物はすべて与えよう。それから銀の首輪と檻をつくらせて、彼を繋ぐ。決して逃がさない、そ……」
彼の言葉が不自然に途切れたかと思うと、ガストンが叫んだ。
「ミシェル、目を覚ませ。今のうちに逃げろ!」
ミシェルは飛び起きた。
見ると、ガストンはブランシュを後ろからはがいじめにしている。
ガストンの方がやや大柄で体格が良かった。
ブランシュはその腕の中で、凶暴な白鳥のようにあばれている。
「なぜ邪魔をする? 放せ!」
「はやくここから出ろ」
ガストンはとまどうミシェルに言う。
「二度と家に戻れなくなるぞ!」
ミシェルは立ち上がろうとしたが、とっさに力が入らず、腰がくずれた。
「立てないよ!」
ミシェルは訴えた。
「それに、服を返して!」
「格好なんぞ気にしてる場合か。男だろう、そのまま家まで突っ走れ!」
「貴様、放せといっているのがわからないのか!」
ブランシュの顔は怒りのために蒼白く、まるで悪魔のようだ。
額のあたりに浮き出した青い血管が、美しい顔をおそろしいものに変えている。
そのときだった。フェリクスがかたわらに置いてあったタオルをひっつかみ、ミシェルをすばやく包んで、胸に抱きしめた。
そして飾り棚からミシェルの服が入った箱を取ると、部屋から駆け出した。
あとからブランシュの怒声と、ガストンが「早く逃げろ」とわめく声が追いかけてきた。
フェリクスはそのまま通りに飛び出すと、辻馬車に飛び乗った。
「この通りの先の酒場へ行って!」
「ジョゼフの店ですかい」
御者がのんびりと言う。
「あすこは、今日は定休日ですぜ」
「いいから、はやく出して!」
馬車が走り出すと、フェリクスはミシェルを包んでいたタオルをそっとはがし、小箱から服を取り出して渡してくれた。
ミシェルは揺れるシートの上でそれを元通り身につけた。
「ぼくはもう、なにがなんだか……」
フェリクスは後ろを振り返って、追われていないことを確認した。
「ブランシュはいつもあんな調子なんだ。ぼくたち、ずいぶん振り回されたよ――ぼくとガストンはね」
ミシェルはほんの数時間の間にあの部屋で起きたさまざまな出来事をあらためて思い出した。
しかしあるひとつのことをのぞいては、けっきょくのところどうでもよかった。
ミシェルは、やるせない胸の痛みに貫かれて涙を浮かべた。
「あのひとは、ぼくの演奏には何の興味もないと言った」
「ああ、彼はそんな態度が潔いと思い込んでいるんだ」
フェリクスは言う。
「彼はいつも見下しているんだ、たとえばある美しいお嬢さんの平凡な演奏を、彼女と親しくなりたいばかりに褒めそやすような男たちを」
ミシェルは眉をひそめた。
家の商売柄、ミシェルは自然と愛想をおぼえた。
自分のちょっとした生意気な態度のせいで、酔っ払った客にあわや首を折られそうになったこともあった。
しかし世の中にはそんな目にあったことがないために、処世術をくだらぬ追従や媚びとして蔑む人間もいる。
そしてなんとなく、ブランシュがそちら側の人間なのだろうと思った。
ミシェルの不快を感じ取ったのか、フェリクスは微笑んだ。
「でも、彼はきみの可能性までは否定しなかったはずだよ。そうでなかったら、店できみを見たとたんに欲しがったりしないはずだもの」
「ぼくの可能性って何ですか?」
「わからないよ、ミシェル。それに重要でもない。何ができるか以上に大切なのは、何を望むかなんだから。もし今の生活の中に守りたいものがあるのなら、彼には近付かないことだよ。ブランシュはすると言ったことは必ず実行する。それがいいことでも、悪いことでもね」
馬車が酒場の前で泊まると、ミシェルは道に降り立った。
振り向くと、もう馬車の扉は閉められ、走り去ろうとしていた。
酒場の主人は、店のテーブルで帳簿をつけているところだった。
実はアルマンは、ミシェルを宿屋に送り届けた後で、また部屋に戻ってひと眠りした。
そうして目が覚めて遅い朝食をとる頃には、先ほどの出来事をけろりと忘れてしまった。
そして「ミシェルはどうした」と尋ねる主人に「知らない、自分が目を覚ましたときにはすでにいなかった」と答えたのである。
あるいはアルマンは、後から自分の間違いに気付いたかもしれなかった。
しかし気を利かせて主人の心中を思いやるということがないので、あえて訂正もしないのだ。
アルマンからミシェルの居所を「知らない」と言われ、ミシェルが戻ってくるまでの間、主人は気が気ではなかった。
そこでがらんとした店に座って帳簿をつけながら、戸を開け放して、通りの様子をうかがっていたのだ。
ミシェルがもっと子供だった時分には、ふざけ半分に家のどこかに隠れていることがあった。
彼はどこにでも隠れられるので、容易には見つからない。そのうちに腹をすかして自分から出てくるのだった。
だが今度ばかりは、ふざけて隠れたのではないだろう。
胸騒ぎがした。二度とミシェルが帰ってこないような、不吉な予感がした。
そんなとき、表に辻馬車が停まり、中からミシェルが降りてきたのである。
ミシェルは暗い店の中に入ってきた。
いつもの元気な、軽やかな足取りとは違っている。
ゆっくりとしていて、どこか重い。
傷をかばいながらそれを天敵に気取られまいとしている動物のような、妙に用心深い歩き方だ。
ミシェルは見られているのに気付くと、ことさらに背を真っ直ぐにして胸を張った。
そしてなにくわぬ顔を装い、主人の座っているテーブルの横を通り過ぎようとした。
主人が口を開いた。
「どこへ行っていた?」
ミシェルは足を止めた。
「今日は店はお休みでしょう、お父さん。だからぼく、ちょっと友達のところへ行っていたんですよ」
だが主人は、ミシェルに同じ年頃の遊び友達などいないことを知っている。
ある意味ではミシェルの環境は、この上なく不健全なものだった。
いつも大人たちにかこまれ、かわいがられている。
そのためミシェルは早くから愛嬌をふりまくことをおぼえた。
たえず客の猥談を耳にし、店で繰り広げられる色恋沙汰を目にして育ったため、ひどくませたところもあった。
それでいてこの酒場を兼ねた家と、中庭からほとんど外に出ないのだから、まったくの世間知らずである。
酒場の主人は、ミシェルのそうした危うい面を承知していた。
だからといって、ちがう環境を与えてやれるわけでもない。
ミシェルを守ってやりたい反面、この並外れて小さな少年がいつか自分の手をすりぬけてどこかへ飛んでいってしまうような、あるいは何か限りない過ちを犯して地の底へと堕ちてゆくような、得体の知れない不安をおぼえるのだった。
主人の角ばった赤い顔の、太い眉のあたりに、ひとはけの悲しみがにじんだ。
ミシェルはそれを横目で見つつも、しっかりと感情を閉ざし、何をきかれてもシラを切りとおす覚悟でいる。
主人にもそれがわかったのだろう。それ以上問い詰めることなく、静かに言った。
「ミシェル」
「なんですか、お父さん」
「おまえをそのように小さくお造りになったのは神様なのだ。どのようなお考えがあって、おまえに試練をお与えなさったのかはわからん。だけども、神様はおまえをちゃんと見ていてくださるのだよ。おまえが悪魔の誘惑に屈することなく、何恥じることなくまっすぐに生きるならば、きっといつかお救いくださるだろう」
「はい、お父さん」
ミシェルは答えて、そっとその場を離れた。
厨房を通り抜けて裏庭に出ると、アルマンが石段に腰かけてぼんやりと夕暮れの空を見上げていた。
彼はミシェルを見ると、満面に笑みをたたえた。
「いたの? 遊ぼう」
ミシェルは首を振った。
「疲れてるんだ。部屋に連れて行って」
二人は部屋に上がった。夕陽が窓を染めていた。
ミシェルはドアをあけてもらうと、アルマンの寝台によじのぼった。
脱いだ上着をわきに投げて、粗い麻織りのカバーの上に身を横たえる。
主人のことを考えた。
(ぼくがあの人たちのところへ行っていたこと、勘付かれただろうか)
説教めいた言葉を口にしたことには、とくに意味はないともいえた。
主人はミシェルが幼い頃から、ことあるごとに同じようなことを言っていたのだ。
ミシェルも子供の頃は、その言葉を信じていた。
いい子にして、言いつけに従えば、神様が自分をあわれんで奇跡を起こしてくれると思った。
毎晩寝る前に、今日も一日いい子にしていたから、そしてこれからも役立つ子になるから、どうか自分を他の子供たちと同じ大きさにしてください、と祈った。
明日になったら、路地裏で遊んでいる他の子たちの仲間入りをするのだ。そう願いながら眠りについた。
しかし朝になって目を覚ますたび、何一つ変わっていないことを思い知らされる。
そうして幾度となく明け方に苦い涙で枕を濡らすうち、しょせん奇跡など起こるはずがないと知ったのだ。
(もう信じない。神様なんて)
ミシェルは寝返りをうった。ざらざらした布に頬がこすれるのもかまわず、うつぶせになって目を閉じる。
(もし神様がいたとしたって、きっとぼくが嫌いなんだ。ぼくは神様にも、母さんにも見放された。だからぼくだって見限る)
背中にそっと手が置かれるのを感じて、ミシェルは目を開けた。
アルマンが寝台の端に腰かけて、ぐったりと身を投げ出したミシェルを心配そうにのぞきこんでいる。
ミシェルは仰向くと、ものうげに目を半ば閉じて、彼の指に自分の手をからめた。
「ぼくが好き?」
「え?」
「まだぼくが好き? ぼくが悪い子でも?」
「好き」
隙間のあいた歯を見せて、アルマンは笑う。
「悪い子じゃない。ミシェルは綺麗」
ミシェルは微笑んで、目を閉じた。
心臓の上に彼の手の重みを感じ、その慣れ親しんだ不器用さに安堵する。
ミシェルは彼の指の一本を引き寄せて、関節に口づけた。
「ありがとう。おまえだけは、いつでもぼくの味方だね」
だがミシェルは、勘違いしていたのだ。
アルマンは自分自身を、ミシェルの忠実な下僕だなどとは思っていない。
彼にとってミシェルはあくまでも、愛らしい、小さな、人形だった。
従っているように見えるのはただ、ミシェルに対して疑問をさしはさむだけの自意識がないからだ。
アルマンは、自分の愛撫に身をまかせきっているミシェルをながめる。
ミシェルは鱗粉がかかったようにつやのある、長い漆黒の睫毛を閉じ合わせて、赤い唇は軽く開いている。
アルマンの鈍い頭でも、何かあったらしいのは感じとれる。
ただ、ミシェルがいつもよりものうげで、甘えた様子をしている、ということがわかるだけだったが。
そのせいで、今日はやわらかな肌がいっそう艶やかに見える。
若者らしいすらりとした四肢とは裏腹に、やや鳩胸の、なめらかな胴のあたりは、幼い少女のようなあやしい媚惑をおびている。
アルマンはたまらずに、ミシェルを両手でおしつつむ。
そしてこの美しい人形が自分のものだということに悦びを味わうのだった。
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