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旅立ち(完結)
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ミシェルは楽々と石段を駆け上がり、金色の装飾がほどこされた扉を開いた。
そこで、夢だと気付いた。
なぜならその建物は実際にはありえないほど小さくできていて、何の苦労もなく石段をかけあがったり扉を開いたりすることができたからである。
目の前に、螺旋階段があった。
その階段の上から、ピアノ曲が流れてきた。
聴いたことのない旋律だ。
その舞うような蠱惑的な音色に惹かれて、ミシェルはふらふらと階段をあがった。
真っ白な広間に、ぽつんとピアノが置かれていた。
その前に座っているのはブランシュだった。
彼は手を止めることなく、首だけ巡らせて言った。
「何を怖れている、ミシェル?」
「だって、あなたは行ってしまうから」
「わたしは気前のいい男だよ」
「ぼくはあなたのようには弾けない」
「そのとおり。わたしのようにではなく、おまえはおまえのやり方で弾くべきだ」
次の瞬間、ピアノもブランシュも消えていた。
ミシェルは目を覚ました。まだ朝早い。定休日の翌日だった。
黒兎の毛皮に横たわったままぼんやりしていると、まるで耳元で誰かがささやいたかのように、ふいにある考えがひらめいた。
(今日はあのひとたちが発つ日だ)
ミシェルは飛び起きた。
不思議な衝動にかられて、急いで服を着替えた。
それから脱いだ寝巻きも、かたわらの木箱に入っていた換えの服もすべてトランクにほうりこんだ。
トランクのまわりのレースのハンカチを取り外して、これも毛皮の上にのせる。それからつっかえ棒を外してトランクのふたを閉めた。
自分のしようとしていることに気付いて、ミシェルは身震いした。
そっと階下へおりてゆくと、帳場の椅子によじのぼった。
引き出しから便箋を探し出し、ペンをインク壺にひたす。
ミシェルは長すぎるペンを苦心してあやつり、細かくて読みにくいと思われないように、なるべく大きな字で手紙を書いた。
『お父さん、お許し下さい。ぼくは旅に出ます。いつ戻れるかわかりません。でもどうか、心配なさらないでください。ぼくは遠くから、お父さんがお元気でいらっしゃるよう祈っています』
ミシェルは手紙を封筒に入れた。それを持って再び部屋に戻ると、背伸びして窓際のテーブルの上にのせる。
それからアルマンを起こして言った。
「ぼくは今日は子爵様に用があるんだ。だからね、ぼくを丘の上の子爵様の館へ連れて行って。まだみんな眠っているから、そっとね」
もしかするとこのときアルマンは、ミシェルが何をしようとしているか理解したのかもしれない。
いつになく手荒に、ミシェルを寝台の上に押し倒した。
「いやだ。遊ぼう」
「いまはだめ、時間がないんだ。あとで遊んであげるから、はやく出かけようよ」
だがアルマンはやめようとしない。
「ミシェルは、ここをさわられるの、好きなんだ」
「あ…っ、ん……ねえ、本当に今はだめなんだってば」
アルマンの指は脚の間にはいりこみ、厚い手のひらが、下腹をぴったりと覆う。
皮肉なことに、彼はやっと匙加減をつかみつつあるようだ。
いつになく巧みにいじられて、ミシェルは身もだえた。
「だめ、だめだよ、アルマン。そんなにされたらぼく……服を汚しちゃう。出かけなきゃならないのに」
「汚せば?」
言うなり、アルマンはミシェルのシャツをつかみ、襟元の紐もほどかずに、左右に引きちぎった。
その暴挙に、ミシェルはびっくりした。
アルマンはにやりと笑って、ズボンもむりやりに下ろしてしまう。
ミシェルの胸に両手をおいて、しなやかな筋肉をもみしだく。
ミシェルは手掴みにされた魚のように身をよじった。
「ねえアルマン、ぼくたち、いつまでもこんなことしていられないんだよ。ぼくは男なんだから」
「ミシェルは男じゃない。男はこんなに小さくない」
「背丈のことは言わないでよ!」
アルマンはミシェルの両足首をつかんで胸の方に折りたたんだ。
いやおうなく腰が持ち上げられる。
「ミシェルは、おれの綺麗な花嫁さんだ」
「そんなわけないじゃないか。いい加減に目を覚ましなよ!」
突然、岩石をぶつけられたほどの衝撃をおぼえた。
ミシェルは呼吸するのも忘れ、凍りついた。
後ろの、あらわにされた蕾に、アルマンが指をねじこんだのだ。
「これで花嫁さんだね」
ひっそりと笑って、彼は言う。
全身にあぶら汗がふき出てきた。あまりの苦しさに身じろぎもできない。
ミシェルはこれまで、アルマンは自分の教えたことしかしないと思い込んでいた。
しかしミシェルが酒場の客の会話から早熟な知識を身につけたように、アルマンもまた、だいたいのことは承知していたのだろう。
ただでさえ激痛にさいなまれているところへ、アルマンは指を動かしてミシェルを突き上げた。
彼がむりやり指を引き出し、また貫くたび、ミシェルは絶叫した。
血がぽたぽたとシーツの上にしたたった。
そのとき部屋の戸口で、娘の甲高い悲鳴がした。
ミシェルが大声をあげたので、たまたま廊下を通りかかった住み込みの女給がドアを開けてしまったのだ。
彼女は日頃から、アルマンのことを少し薄気味悪い男と思っていた。
そこへきて、彼が全裸のミシェルを寝台に押さえつけ、あらわにされた両脚の間に手を突っ込んで奇怪な動きをしているのを見てしまったのである。
続いて酒場の主人が女給の声に驚いてかけつけ、立ちすくんでいる女給の肩越しに部屋をのぞきこんだ。
主人は女給を押しのけて踏み込んできた。そしてアルマンをミシェルから引き離し、力いっぱい殴り倒した。
灰色の髪をきれいになでつけた男が、袖をまくりあげ、たらいで手を洗っている。彼はおだやかに言う。
「……つまりどの指が、何本くらい挿入されていたのかね」
店の主人は、部屋を行ったり来たりしながら両手をもみしぼっている。
「さあ、そこまでは……シーツが血だらけになっとるのを見て、わしらみんな動転しちまったもんですから」
そのシーツも今は片付けられ、寝台は整えなおされていた。
ミシェルはその上に、ガーゼを重ねて寝かされていた。
戸口の暗がりでは二人の女給たちが、ひそひそとささやき交わしている。
アルマンは、主人によって地下のワイン倉に閉じ込められていた。
医者はミシェルの心音を確かめると、次に腹部に指を当てた。少しずつ移動しながら軽くおさえてゆく。
「どこか、痛むところは?」
ミシェルは弱々しく首を振る。
「ここは?」
「……いいえ」
彼はミシェルをうつ伏せにして、膝を立てさせた。傷ついた細かな蕾に、ひんやりと濡れた脱脂綿が押し当てられる。
「…ッ」
「こういうことは、前にもあったのかね?」
「いえ、あの……」
ミシェルはためらいがちに、絶叫で痛めた咽喉からかれた声をしぼりだす。
「今までは、さわるだけだったから……」
「おじさんが君の身体に触ったのだね?」
「はい……お風呂とか、着替えのときに」
「おじさんは、君に自分の性器を見せたかね?」
「はい、おじさんの――」
ミシェルは言葉をとぎらせ、どうしようもなくこみあげる嗚咽をのみこんで、押し殺したすすり泣きをつけ加える。
「おじさんのあれを、ぼくの身体におしつけてきて、『舐めろ』って言いました」
「そういうことがあった時は、すぐにお父さんに言わなくてはいけない」
「言えなかったんです。だって、お父さんが悲しむから――」
ミシェルは両腕に顔を伏せて泣き崩れた。
医者は処置を終えると、再び主人と話しはじめた。
「彼は非常に小さいが、丈夫で順調に発育している。驚くべき現象だ」
「そんなことは、いまさらご指摘いただかんでもわかっとります。せがれはあやうく死ぬところだったんですよ」
「まあ落ち着きなさい。内臓までは貫通されていない。洗浄して、薬を塗っておいた。縫合の必要はないよ。二、三日は軽い出血が続くかもしれないが、じき止まるだろう。それともうひとつ、彼は普通の人間より代謝が早いようだ。肉体的にも知能も、すでに十代半ばかそれ以上と思って間違いない」
「いくら速く育つといったって、せがれはまだ九歳なんです。こんな子供に……」
「あなたの弟さんは、おそらく異常性欲者だよ。わたしは門外漢だが、いちど精神病院に送るべきかもしれない」
医者はテーブルの前に腰を下ろして、ペンを走らせている。
「ミシェル君はしばらく休養させることだね。鎮静剤と睡眠薬を処方しておこう。彼の体重ならば……まずは一回につき通常の四分の一の量で様子を見て、くれぐれも与えすぎないように」
酒場の主人は医者を送り出すと、戻ってきて寝台のそばにひざまずいた。
「こんなことになるまで気付かなかった父さんを許しておくれ。おまえをアルマンにまかせきりにしておいたのがいけなかった」
女給の一人がもらい泣きしはじめた。ミシェルは向きを変えて、気丈にも微笑んだ。
「いいえ、お父さんは悪くありません。ぼく、もう平気です。ただ、しばらくひとりにしてほしいんです」
主人はドアを薄く開いたままにして、立ち去った。
人々が出て行くやいなや、ミシェルは再び突っ伏して泣きじゃくり、もう誰にも聞こえないとわかるまで続けた。
それからふいに顔を上げ、まだ瞳に涙をためたまま、愛らしい唇をゆがめて薄笑いをうかべた。
(病院送りにでもなんでもなるがいい。おまえがいけないんだよ、アルマン。ぼくに逆らうから)
ミシェルは窓を見上げた。昼間だというのに空は暗く、いつのまにか大粒の雨が窓ガラスを叩いている。
(あのひとは、もう出発してしまっただろうか)
そう思うと急に脱力感におそわれた。ミシェルはガーゼと、毛布を首まで引き上げて、目を閉じた。
どのくらいうとうとしていたか、ふと目を覚ます。町の教会の鐘が正午を告げた。
ミシェルは目を見開いた。
(いや、まだ間に合う!)
ミシェルは起き上がった。
(今からでも子爵様の館へ行って、ブランシュの行き先を確かめればいい。もしかしたら、次の町で追いつくかもしれない)
ミシェルはそっと寝台からすべりおりた。
一瞬、めまいがした。
自分が寝ていた場所を振り向くと、ガーゼの上に血の染みがついていた。
(行くなら今しかない。今なら、誰もぼくが部屋から出るとは思わないだろう。それに、あのひとが遠くへ行ってしまってからではもう遅い)
閉じたトランクを開いてシャツと下着を取り出す。
出血しても目立たないように、生地の厚い焦げ茶色のズボンと、そろいの丈の長い上着を選んで身につけた。
トランクそのものを持っていくことは無理なので、あきらめた。
ただわずかな荷物だけ取り出して大判のハンカチに包み、端と端を結んでななめに背負った。
彼は椅子にのぼってテーブルの上の手紙をとった。
主人も、女給たちも、騒ぎに紛れてこの手紙に気付かなかったのだ。
ミシェルは少し考えたが、けっきょくそのまま書き換えずにテーブルの上に戻した。
彼は苦労して階段を下り、裏口に向かった。
ミシェルは野菜箱からキャベツの外側の葉を一枚とって頭にかぶると、雨の降りしきる中庭に出た。木戸の下のすき間をくぐって、厩のある通りに出た。
雨は激しかったが、丘まで行くのだというミシェルの決心は固かった。
彼はブランシュが自分の想いをわかってくれると信じていた。
あれだけの演奏ができる人間なら、他人の音楽への情熱も否定しない――できない――はずだ。
彼は雨のせいで人通りの絶えた町を通り抜けた。
丘のてっぺんへと続く馬車道は、水が流れ落ち、濁流の川になっていた。
ミシェルは道をそれて、草の中を進んだ。
これは大変なことだった。
蚯蚓や、かたつむり、蛙などがだしぬけにあらわれた。
ミシェルから見るとこういった小さな生き物も怪物に等しく、いちいち飛び上がるほど驚いた。
館の門の前にたどり着く頃には、すっかり日が暮れていた。
ミシェルは門を開けてもらうということに思い至らなかった。
呼び鈴には手が届かないし、そもそも門が閉ざされていることさえ気付かなかったからである。
彼は鉄柵のすき間をあっさりとくぐりぬけ、どんどん庭に入っていった。
そのとき、納屋の方から巨大な黒い猟犬が突進してきた。
ミシェルは逃げた。
芝生が膝にからみつく。
心臓が破裂しそうだ。
無我夢中で突っ走るうち、丸くて暗い洞穴が目に入った――というよりそれは、庭の片隅に転がった、古い陶器の花瓶だった。
ミシェルはとっさに身をかがめると、蛇もかくやという素早さで身をくねらせ、花瓶の丸い口の中へとすべりこんだ。
すかさず両脚を胸に引き寄せ、犬の牙から逃れる。
あと一秒遅ければ、足首を喰いちぎられるところであった。
犬は花瓶の口に鼻面を押し付け、前足を突っ込んできた。
ミシェルは花瓶の底に縮こまった。
背中にしょっていたハンカチの包みをほどき、自分専用の小さなフォークとナイフを取り出す。
そして、かぎ爪で陶器を引っかいている黒い前足めがけて、フォークを振り下ろした。
犬はきゃんと叫んで足を引っ込めた。
ミシェルはため息をついて、花瓶の底によりかかった。
濡れて寒かったが、ほっとしたとたんに疲労が押し寄せてきた。
彼は半ば気絶するように眠りに落ちた。
目を覚ますと、にじむようなランプの明かりが見えた。
長細い木桶に張った湯の中に横たえられ、誰かが頭と背を支えている。
「アルマン?」
ミシェルはささやいた。
今までずっと夢の続きを見ていたのだ、と思う。
家出したことも、あの恐ろしい犬も夢だったのだ……。
「気がついたか」
アルマンのものにしてはやけに明瞭な声が言う。
数回瞬きすると、視界がはっきりした。
「あんた、ジョゼフの店のミシェルだろう。道に迷っちまったのかい?」
そこは屋敷の厩だった。
夕飯時、えさをやろうとして犬を探しに来た馬丁が、庭の片隅の花瓶をしきりにかぎまわっている犬の姿を見つけた。
花瓶を拾い上げて逆さにすると、青白い手が一本、だらりと垂れ下がった。
お嬢さんの人形か、と思って引っ張り出してみると、ミシェルだったのである。
そこで厩に連れてきて、冷え切った身体をあたためてやったのだ。
ミシェルは一晩中具合が悪かった。
熱を出し、夢と現の境をさまよってうわごとをささやいた。
服は乾かすために吊るされているので、裸のままごわごわした古いタオルの上に寝かされ、寝返りをうつたび素肌がこすれて痛んだ。
しかし翌朝になると、ミシェルはすっかり元気を回復した。
服を着ると、馬丁が台所へ連れて行ってくれた。
ミシェルはテーブルに腰かけて、女中が小鉢に分けてくれた豆粥を続けて二杯たいらげた。
馬丁と女中が話していると、戸口から、別の女中が顔をのぞかせて言った。
「カロリーヌ、あの方たちがお出かけになるわ。お見送りしなくっちゃ」
「誰のこと?」
ミシェルがたずねると、女たちは答えた。
「滞在なさっていた伯爵令息さまと、お供の方たちが今日お発ちになるのよ」
「ブランシュのこと? 出発は昨日じゃなかったんですか?」
「いいえ、昨日は出発なさらなかったのよ。雨が激しくなりそうだからって」
「待って、ぼくも行く!」
ミシェルが叫ぶと、カロリーヌは笑いながら彼を抱き上げ、勝手口から駆け出していった。
ミシェルは柔らかな胸に抱きしめられ、晴れわたった青空の下に出た。
広大な芝生は雨露に輝き、太陽はまばゆかった。
奇妙な、なつかしい眩暈を感じた。
ほんの赤ん坊だった頃によく入れられていたエプロンのポケットの感触を、彼はかすかに憶えていた。
カロリーヌは陽気に息を弾ませながら他の女中たちのところへたどり着き、見送りの列の端に並んだ。
屋敷の正面には、箱馬車が止まっていた。
下男たちが旅行鞄を運び込んでいる。
その向こうに、洒落た外套を着込み、座席に乗り込もうとしているブランシュの姿があった。
ミシェルは地面に降ろしてもらい、馬車に向かって駆け出した。
御者は、大きく開かれた門に馬の頭を向けさせている。
ミシェルは小道の途中で追いついた。
ブランシュが駆け寄ってくるミシェルに気付き、馬車を止めさせたのだ。
ブランシュは、馬車の中から身をのりだした。ミシェルは彼に向かって腕をさしのべた。
「ぼくの音楽教師になってください。ぼく、あなたのもとで学びたいのです」
「しかし、我々は――」
「わかっています。あなたの行くところへぼくも行きます」
ブランシュはいっそ無邪気なほど得意げな笑みを浮かべて、仲間の二人を振り向いた。
「見たまえ、わたしは彼もそれを望むと言ったはずだ。さあ、一緒においで」
だがミシェルは、まだその場に立ったまま動かなかった。
「ひとつ約束してください。ぼくはどの町へ行っても、たとえあなたのおっしゃるつたない演奏でも、芸人として歓迎されるはずです。ですから、授業料は自分で稼ぎます。レッスンの謝礼に身体を要求しないで下さい。あなたがぼくに触れていいのは、ぼくが許した時だけです。もしこれを守ってくださらないなら、ぼくはいつでもあなたのもとを離れます」
ブランシュは濃紺の眼を丸くしてミシェルを見た。
やがてその眼が、刃物のように細くなった。
「おまえは、このわたしをはした金で雇おうというのか」
ミシェルは、その声の冷ややかさにひるんだ。
だが真っ直ぐに立ったまま、決して瞳をそらさなかった。
次の瞬間ブランシュは、頭をのけぞらせ、深く澄んだ声をたてて笑い出した。
「おまえの大胆さには敬服する。しかし、大道芸の真似事はやめてくれたまえよ。わたしが金に困っておまえに芸をさせていると思われてなろうか。それでは体面にかかわる。おまえを教えてやってもよいが、報酬は受け取らない。わたしは趣味でそれをする」
ミシェルは躊躇して首をかしげた。
ただブランシュが一種独特の観念を持っており、そう簡単に自尊心を捨てないだろうということはわかった。
「しかしおまえの要求は受け入れよう。わが名誉にかけて、おまえの身の安全は保証する。触れられたくなければ、言葉ひとつで自由に拒否するがいい。ただし、わたしは一個人としておまえを誘惑する権利を放棄したわけではない。いずれおまえの方からわたしを求めるようになるだろう」
「なにもブランシュを求めなくてもいいんだよ、ミシェル」
フェリクスがにっこり笑って横から口をはさんだ。
「ぼくもいるしね」
「おれでもいいんだぞ、ミシェル」
ガストンが奥の方から身を乗り出した。
「ブランシュに厳しくされたらいつでも甘えに来い」
ブランシュは上機嫌で仲間の軽口を聞き流し、ミシェルに手を差し出した。
ミシェルはその指をつかみ、馬車に乗り込んだ。
そのとき、背後に荒々しい息遣いが聞こえた。
上着の裾が噛みつかれたように強く引っぱられた。
ミシェルは犬のことを思い出し、うなじの毛が逆立った。
だが振り向くと、そこにいたのはアルマンだった。
丘を駆け上がってきたらしく、犬のように激しく息を切らしていたのだ。
そのすさまじい形相に、ミシェルはあやうく悲鳴をあげるところだった。
赤く血走った眼をして、顔は主人に殴られたため腫れ上がり、そのうえ道々跳ね上げた泥で汚れていた。
彼だけはミシェルの行き先を知っていた。
昨日、ミシェルから子爵邸へ連れて行ってくれと言われたことを憶えていたのだ。
そこで地下室から出されると、隙を見て店を抜け出し、ここまで走ってきたのだった。
「行くな。行っちゃだめだ、ミシェル」
彼はミシェルの上着の裾をにぎりしめて引き戻そうとする。
だが、ブランシュが断固としてミシェルを抱き上げ、アルマンを押しのけた。
「おまえは何の権利があって彼を止める? これは彼が決めたことだ。離したまえ!」
するとアルマンは、おどおどしてあとずさった。
ああ、彼はぼく以外の人間が苦手なのだ、とミシェルは思い出した。
他の人たちとはろくに口をきくこともできないのだった。
どうして今までそれを忘れていたのだろう。
ブランシュは御者に命じて馬車を出した。
アルマンは走って追いかけてきた。
馬車の横を走りながら、彼は腕を振り回し、子供のように泣きわめいた。
「ミシェル! ミシェル!」
ミシェルはシートの上に立ち上がり、窓から顔を出した。
彼に向かって、何か言おうとした。
だが言葉が出てこない。せめて名前を呼ぼうとしたが、声にならなかった。
なぜかとめどなく涙があふれて頬を伝い、風が目に沁みた。
「いったい何なんだ、あの男は?」
ガストンが不思議そうに言う。
「憶えてないの? ミシェルの店の下男だよ」
フェリクスがささやく。
そのひそめた声には同情が、「ちょっと足りない人らしいね」というニュアンスがこめられている。
だがブランシュは何も言わない。
ほんの数秒の間にアルマンとミシェルとの関係を見透かしたかのように、だが眉をひそめるわけでもなく、共犯者めいた微笑みをうかべてミシェルを見ている。
ミシェルはその視線に気付いて、あわてて涙を拭いた。そして、救いを求めるように言った。
「ぼくはなにも悪くない。そうでしょう?」
ブランシュの長い指がのびて、なだめるように軽くミシェルの顎に触り、首をかすめた。
その何気ない指の動きが魔力のごとく生み出す甘いざわめきを、ミシェルは目を伏せて隠し、ため息を噛み殺した。
「その愛らしさがすでに罪なのだよ。おまえはそれを自覚すべきだ」
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