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9-ⅲ
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目が覚めてから眞戸がした事と言えば、オヒサマへ買い物に行き、昨日のレシピ本に載っていたスポンジケーキを作った事くらいだった。
今は珈琲を啜る乙常の前で、思いの外膨らまなかったスポンジケーキを目の前に、小さく唸っている。
「これじゃあ、スポンジとは言えないなぁ」
「そうか?普通に美味いと思うが」
「味じゃないんだよ乙常くん。問題はこれがスポンジか否かという事」
眞戸は不服そうに八等分されたスポンジケーキのようなものを口に入れて、口を尖らせる。
材料を全て準備して、レシピ通りにさぁ始めようと作業を始めたのだが、スポンジケーキの要とも言っていい泡立てがしっかりとできていなかったようで、大して膨らまなかったのだ。と言っても、ハンドミキサーを使えば良い話なのだが、そのハンドミキサーが以前から調子が悪く、今回電源を入れて数分後にお陀仏してしまったというわけだ。すぐに買いに行けばよかったのだけど、どうもそういう気にはなれず、あとは手で泡立てを頑張った。
「スポンジにしたかったなぁ」
「これはこれで身が詰まっていて良いんじゃないか?」
「確かに凝縮されてるけど…硬くないかい?」
「硬い?」
眞戸は手に持っている食べかけのケーキを口に全部放り込むと、何か言いたそうな顔をしてそれを飲み下した。
乙常の言う通り、身が詰まっていると言ってしまえば聞こえは良いのだが、これがもしスポンジだったらと考えると、もっとずっと美味しいと思うのだ。口に含んだ瞬間に香る卵の香りも、甘さ控えめでしつこくない甘さも、余計な香りが無い無難なスポンジケーキ。そう、あとは膨らませるだけなのだ。
「歯ごたえがあるじゃないか」
「まぁ、確かに。田舎の焼菓子みたいで俺は好きだけど」
乙常はまたテーブルの上に置いてある焼菓子に手を伸ばし、眞戸の失敗作を口に入れる。眞戸はじっとその様子を見て、知らずのうちに視線を落としていた。
何度も言うが、乙常は恥ずかしい男なのだ。一口食べては顔を綻ばせ、口に出す美味しいの言葉とはまた別の感情まで読み取れるのだ。
それもそのはず。
乙常は愉快だった。いつも何でも上手くこなす眞戸が、こうして失敗作を生み出すというのは、乙常の知るところ初めてかもしれない。そして、そんな姿を自分の前でさらけ出している彼に、人間らしさを感じる。少しずつだが、彼との距離が近付いたことで、彼の完璧では無い面が見えてきて、それが増える度愛しさが増すのだ。
「あのさ、乙常くん」
「ん?」
「次のお休みはいつか分かるかな?」
「あぁ、明後日だ」
「もし、よかったらなんだが、その日半日くらい僕にくれないだろうか?」
眞戸は少しだけ首を傾げて尋ねる。
元々用事もなく、Panduleに足を運ぼうかと思っていた乙常に、断る理由など無かった。二つ返事で了承すると、眞戸は嬉しそうに笑みをこぼして礼を言った。
「買い物か?」
「ハンドミキサーを買おうと思ってね」
「そういえば、壊れたんだったな」
「うん。君には今度こそ、もっと美味しいスポンジケーキを食べて欲しいからね」
「それなら、俺も一緒に行かないといけないな」
乙常は笑って珈琲を一口飲んだ。口の中にほんのり残る甘さにより、入ってきた苦味が際立つ。しかしそれもまた、良いものだ。
「乙常くん、乙常くん」
「何だ?」
「初めてのデートだね」
乙常は数秒固まって、小さく吹き出す。
確かに眞戸の言う通り、付き合って初めて一緒に外出する訳なのだが、嬉々とした表情でデートだねと言った眞戸は、心の底から楽しみだと顔に出ていた。幸せそうな顔をして、と、乙常は内心思いながら、そうだなと肯定の言葉を吐いた。
「僕、頑張って勉強するから」
「勉強?何を」
「デートについてだよ、乙常くん」
「デートの?」
「初めてなんだから、下調べは必要だろう?」
至って真面目に眞戸が言うものだから、乙常は流されるように確かにと返していた。
しかし、行き先が家電ショップだというのにそこまで気合いを入れるのかと思うのだが、眞戸にとっては乙常と一緒に出かけるということに、意味があるのだろう。
なんせ眞戸は乙常同様恥ずかしい事を考えていたりするから、彼といればどこでもデートになると思っている節もある。もちろん、ここPanduleはその対象外なのだが。
乙常は眞戸の言う勉強に少々不安を覚えながらも、明後日に二人が初デートをする事が決まったのである。
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