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「圭吾! どういう意味だ。圭吾!」
返事をせず歩くけれど、すぐに追いつかれた。手を掴まれて、前に進めなくなる。
「離してくれ。この足ではおまえを振り切れない。わかるだろう? 惨めな思いをさせないでくれ……頼む」圭吾は顔を前に向けたまま言った。
幸樹の手が、名残を惜しむようゆっくり離れてゆく。
「圭吾……」
背中に声を受けても、圭吾は前へ進む。
「行くな」
足を引きずって、前へ、前へと。
「行かないでくれ」
か細い声なのに、はっきりと耳に届いた。それでも圭吾は唇を噛み、歩く。
「俺を置いていかないでくれ」
ついに足が止まってしまった。胸に突き刺さる彼の声へ、抗いきれない。
「違う」圭吾は振り向いた。「おまえが……ああ、何で」
幸樹は泣いていた。ぐしゃぐしゃに顰めた顔を、隠しもせずに。
おまえが泣くのか。胸に湧く、この灼熱の激高。泣きたいのはこちらだ。
圭吾は黙って幸樹を見た。記憶にあるどれよりも情けない彼の姿をただ見ていた。慰めることも、怒鳴り散らすこともできなかった。
しばらくそうしていたら、幸樹が唐突に頭を抱えて蹲った。
「苦しい。たまらない。頭痛が、ああ、糞っ」
「幸樹!? おい、大丈夫か!? 何で? 身体はもう大丈夫なんだろ?」
圭吾は跳ねるようにして、彼の元へすぐさま行った。
肩に手を置くと、幸樹の手がそこに被さった。
「誰かの笑顔が見たいと思っていたはずなんだ。そう、ああ、そうだ。誰かの……渡した。何か、を、俺の心。すべてを込めた何かを……」呻きながらぶつぶつと、自らに言い聞かせるようにしている。
「救急車を―」
携帯電話を手にした圭吾だったが、足に縋り付かれる。
「圭吾。助けてくれ。俺を助けてくれ……」
圭吾の涙腺が決壊しそうになる。プライドが高い彼がここまでするのだから、思い出したいという気持ちは真なのだろう。しかし、どうして、それでも思い出せないのだ。どうして、今までそういった姿を見せなかったのだ。昏睡状態から目覚めた時に、こうされていたならば。いや、今が、昨日だったなら。
「そんなこと、どうして今更……っ、俺にはどうにもできない。俺は、何もできない!」
猛に抱かれたのだ。幸樹以外を知ってしまった。砂時計のように、ひっくり返せばまた時が戻るわけではない。どうしようもならないのに、こんな風に縋られてはたまらない。
「おまえしかいない。猛には断られている。家庭を大切にしろと。おまえと同じことを言っていた」幸樹は涙を拭おうともせず、言葉を続ける。「俺にはおまえという糸口しかないんだ。取り戻したい。そう願うことは罪なのか? 何故、思い出してはいけないんだ!」
幸樹の手が崩れ落ちるように剥がれた。彼は憤りをぶつけんばかりに、アスファルトに何度か拳を突き立てている。
こそりと深呼吸をし、圭吾は涙を喉の奥に流し込んだ。感情を少し落ち着かせてから、口を開く。
「幸樹。思い出したところで、何が変わる? おまえは、おまえでしかない。過去の五年がなくても、おまえという芯はそこに」圭吾は幸樹の前にしゃがみ、胸をとんっと軽く叩いた。「この、胸にある。そうだろう? 何も変わらないよ。幸樹は、幸樹のままだ」
幸樹はまぶたを見開いた。
「圭吾……」
「もう大丈夫そうだから、俺は行くよ。急がないといけないんだ。出勤時間を大分過ぎてしまっているから」
立ち上がり、幸樹に背を向けた。
「また会ってくれ。連絡先を教えてくれ。引っ越し先はどこなんだ。職場は?」
重い足を引きずって歩く。
いっそ雨でも降れば、思う存分泣けたのに。涙は雨で消えるだろうから、誰かに気づかれることもない。
「今、手にあるものを大切にして。幸樹、それがおまえにとっての幸せに違いない。子供がいて、妻がいて、幸せな家庭。それは、願ったところで誰もが手にできるとは限らないのだから」
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