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酒に酔っても食われるな3
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アキは夕方近くに目を覚ました。睡眠を取ることが出来たおかげか、顔色も良くなり、テンションも普段と然程変わらない。彼が寝ている間に買ってきていた傷薬で腕の処置をすると、撒かれていく包帯を眺めながら「大袈裟じゃね?」と尋ねてきた。「暫くジャケット着ないといけないな。あちぃだろうなぁ」と、仕事のことを考え溜め息を溢す。
動かせないわけではなかったが、夕飯は明典が作り、テレビを見ながら一緒に食べた。いつも家で見ているお笑い番組を見ながら、昔はこんなのが流行っただとか、あの芸人は今何してるんだろう、だとか。普段飲む時とは少し違う、他愛のない話をする。明典がアキの揚げ足をとることもなかった。
大学生を主人公にしたドラマが始まると、大学時代の話になる。ドラマが描くキャンパスライフは実に華やかだが、実際はそうでもないというのは二人の同意見だった。あんなに色んなことが起こってしまっては、身が持たない。自分達の大学時代といえば、教授が怖かっただとか、そういえば夏に研究合宿したよなだとか、アキが村田をこってり叱ったことだとか。一年しか同じ研究室にいなかったというのに、その時の思い出話で十分笑うことが出来た。
彼とこんな風に、素面でゆっくりと話すことはなかったなと、今さらながら明典は思う。アキも同じ事を考えていたのか、「お前とこんな話するとは思わなかった」と笑った。
大学では遠巻きにアキを眺めることはあっても──なんせこの顔はどこにいても目立つ──、いざ顔を合わせたら挨拶だけで終わることもザラだった。研究室で話すことといえば研究の進捗状況に関する話が主で、自慢が含められたアキの話は相槌をうちながらも全て流していたような気がする。他の先輩とは遊びに行った記憶があるものの、そこに彼がいたことはない。誘わないわけではなかったが、大勢は苦手だとアキは言いきっていた。
アキとの思い出としては、先輩命令だとかなんだとかで、こき遣われたことぐらいしかない。何故だかいつも、村田ではなく明典を指名するのだ。しかし、言われたことをした後は必ず何かしらの労いがあったため、面倒だとは思っても、それほど嫌だと感じたことはない。時折アキの棚上げ発言に言い返していたせいか、アキへの伝言係にされていたこともあった。結局はそれも、「言いたいことは自分で言え」と彼が一喝した。「言いたいことを言わせないようにしてるのは、あんたでしょ?」と返した時は、流石に取っ組み合いの喧嘩が始まりそうになったが、確かあの時は「うるせぇ!!」と隣の部屋の教授が怒鳴り込んでくることによって収められた。それ以来、口をきかない日が続いたが、どうやってまた話すようになったのだろう。村田から「研究室の空気が悪いから仲直りしてくれ」と頼まれたが、「別に前から仲が良かったわけじゃない」と言い返したのは覚えている。自分は悪くないと思っていた。
そういうこともあったというのに、今もこうして彼と関係が切れていないというのも、不思議な話だ。
「俺もまさか、卒業してからもアキさんと飲むなんて思ってませんでしたよ」
「あー、そうだよなぁ。何で飲むようになったんだっけ?覚えてねぇわ」
「村田経由で俺の就職先知って、近くだから飲もうってアキさんから言ってきたんですよ」
「お前よく覚えてんなぁ。もう6年も前の話だろ?」。お茶を飲みながら、アキは明典を見る。「ま、村田が同じ会社に就職したのも、俺にとってはビックリだったけど。あいつだったら、もっと大手に行くんだと思ってたわ」
「そうですね」
「お前今俺の会社馬鹿にしただろ?」
「してませんよ。言葉の綾です」
向かい合って座る彼が明典の脚を軽く蹴るが、明典は特にやり返しはしなかった。
ドラマが終わるのと同時に、明典はローテーブルの食器を片付け始める。食べ残ったおかずはアキがラップを掛け、冷蔵庫へしまっていった。そのまま部屋へ帰っていくかと思えば、食器を洗う明典の側に残ると、換気扇の下で煙草を吸い始める。洗われていく食器を眺めていた。
「……お前、普段自炊してんの?」
「まぁ、だいたいは。面倒臭い時はコンビニ飯で終わらせますけど」
「ふーん」
「アキさんは自炊してるんですか?」
「俺は……あんましない」
「その割には冷蔵庫の中に食材入ってましたけど」
「極稀に、妙なヤル気を出して買い込むんだよ。でも結局やらなくて、賞味期限切れるってな」
「あー……ありますよね、そういうことって。牛乳とか。無い時は困るのに、有る時に限って使わないとか」
「だよなぁ。何でだろうな?」
「何でですかねぇ」
そんな会話をしている内に、二人分の食器はあっさりと洗い終わった。濡れた手を拭き、部屋へ戻ろうとすると、まだ煙草を吸っているアキが服の裾を掴んでくる。脚を止め、振り返ると彼は素知らぬ顔をして煙草の煙を換気扇に吹き掛けていた。
「……何ですか、この手は」
「察しろよ」
「じゃあ煙草ください」
「ん」
咥えた煙草はアキの手によって火をつけられた。「アキさん、煙草止める気ないでしょう?」と尋ねると、彼は「バレたか」と口の端を上げた。居酒屋でも思ったが、綺麗な横顔だ。煙草がよく似合う。
「お前、明日仕事?」
「いや、休みですけど?」
「ふーん」
先に短くなった煙草を灰皿に押し付けながら、アキが口を尖らせた。再び煙草を吸うのかと思ったが、そうではなく明典の着ている服を引っ張る。「お前にやるよ、この服」と、彼は言った。
「アキさんは明日も休みなんですか?」
「そうそう。三連休な」
「いいですね」
「まぁな」
まだアキは明典の服を引っ張っていた。引っ張っては離し、引っ張って離し。伸びるほどの強く引っ張るわけではないが、その度着ている服が身体に擦れるため、その手を掴む。
「…………帰る?」
「帰らない方がいいなら帰りませんけど」
「察してくんねぇかなぁ?」
「ちゃんと言ってもらえないと分かりませんよ。こればかりは」
暫しアキは黙った。そうかと思えば、長く息を吐いて肩へ頭を預けてくる。俯いたまま、彼は小さな声で言った。
「…………今日だけ、泊まってってくんねぇかな?」
その声に、明典の心拍数は上がった。
夕方まで眠ってしまったせいか、明典もアキもなかなか睡魔がやってこなかった。アキが好きな海外ドラマを観つつ、睡魔が来るのを待つ。暫くすると明典の方が舟をこぎだしたため、二人でまた同じベッドへ入って寝た。腕枕はせずに、背中合わせで眠る。途中で目を覚ました時、アキはこちらを向いており、腕を明典の胸の上へ置いていた。それをそのままにして、彼の寝顔を眺める。どこも整っているが、扇状に生えた長い睫毛が印象的だった。そしてまた、夢へと落ちていく。
起きたのは昼前だった。昼食を食べ、夕方近くになると明典は帰り支度を始める。玄関に置いていたゴミ袋は、全て明典が帰るついでに出すことにした。玄関まで見送ってくれるアキに、明典は「大丈夫ですか?」と尋ねると、彼は口の端を上げて笑ってみせた。「何かあったら、いつでもいいんで電話してください」と言う明典に、「分かったよ、オカン」と言いながらヒラヒラと手を振る。
アパートのオートロックドアを通り、見上げた空はまだ青色をしていたが、少し黄色が混じっているように見えた。アキに教えて貰ったゴミ捨て塲はすぐに見つかり、分類通りゴミ袋を放り投げていく。カラスの鳴き声が聞こえ、再び空を見上げると、真っ直ぐに白い線を作る飛行機雲を見つける。その雲は滲んでいないため、雨は降りそうにない。
何となく、明典は思った。アキはもう、何かあっても連絡してこないかもしれない。それは予想でしかなかったが、確信に近いものがあった。見た目通り、自尊心の高い人だ。もしあの状況をどうにか出来たなら、自分になんて連絡して来なかっただろう。そしてまた、気分のままに自分を飲みへ誘い、何事も無かったかのような顔をしていたんだろう。しかし、自分は彼が誰にも見せたくないと思う姿を見てしまったのだ。弱っている姿を見られた自分に、彼が再び連絡してくるとは思えなかった。
暫くは、自分から連絡を入れるか。明典は考える。しかし、これまで自分からアキに連絡を入れたことはないため、あからさま過ぎるか。そもそも、忘れたいと思ってることを彷彿させてしまうようなことをしても大丈夫だろうか。アキの部屋のバルコニーを見る。遮光カーテンは、既に閉められているように見えた。それが彼の心を現しているようにさえ思えてくる。
ふと、ゆうに二日間は見ていなかったスマートフォンを取り出し、画面をつけた。メッセージを受信しているが、彼からではない。あの男からだ。
『寝た?』と書かれたメッセージを開く。アキと海外ドラマを観ていた時刻に送られてきていたものだった。何となく、そのメッセージを見ても重い気持ちにはならない。『どうした?』と返しても、結局は『何をしてる?』としか返ってこないだろうからと、『先輩の家に泊まってた』と返信した。
その返事は明典が自分のベッドに入った頃にやって来る。『この前飲んでた先輩?』というメッセージに、『そうだよ』と返せば、『仲良いんだね』と送られてきた。
仲が良い。仲が良いんだろうか?
確かに二人で居ても、苦痛ではなかった。しかし、本当に仲が良いのであれば、今後のアキとの距離の取り方に、ここまで考えることはないと思う。何が彼のためになり、何が彼のためにならないのか。察することを苦手とする明典には、よく分からなかった。
結局、アキからの連絡はあの日以来無かった。思った通りだ。しかし気になる。
今までだって、飲んだ後は暫く連絡が来ないのが当たり前だったが、これほど気になったことはなかった。時折安否の確認として連絡を入れたが、一言二言メッセージをやり取りするだけで彼の方からそれを止められる。
返ってこないメッセージに悶々とする日もあったが、時間が過ぎればそれも段々と気にならなくなった。
そうしている間に、本格的な夏が来る。例年に続き、今年も猛暑だと天気予報士が告げる前に、そんなことはとっくに気が付いていると明典は思った。茹だるような毎日の暑さに人間は根を上げているというのに、蝉は元気よく鳴き続けている。
女性社員が悲鳴を上げるのが聞こえ、明典はパソコンから目を離した。見れば黒い物体が羽音を立てながらオフィス内を飛んでいる。それは男性社員のシャツに止まったが、その同僚も慌ててシャツを振ったため、再び黒い物体は宙を飛んだ。蝉だ。どうやら窓を開けた時に迷い込んでしまったらしい。
蝉は次に、佐々木のシャツへ止まる。彼は驚いていたが、それが蝉だと気が付くと、慌てはしなかった。すぐに明典が近付き、その蝉を掴む。たったこれだけのことで、オフィスからは歓声が上がった。
蝉だけでこんなに大騒ぎして。虫の多い海なんかでバーベキューが出来るのだろうか。
少し呆れつつも、明典は窓を開けて蝉を放つ。鳴かないから、おそらくは雌だろう。もう入ってこないように窓を閉めれば、佐々木が近寄ってきた。
「蝉って久しぶりに見たなぁ。こんな都会にもいるんだね」
「まぁ、近くに公園があるんで。そこから飛んでくるんでしょうね」
「宮家くん、虫平気なの?」
「気持ち悪いとは思いますけど、なんせ田舎育ちなもんで。持ち方ぐらいは身に付いてます」
「そうなんだ」佐々木は微笑んだ。「俺も田舎育ちなんだよね。夏になったら蝉を追いかけ回してたけど」
意外だった。てっきり見た目で、夏でも部屋にこもり本を読んでいる少年時代を過ごしていたのかと思った。
「なんだか、想像つきませんね」と明典が言うと、佐々木は「そう?」と微笑みかけてくる。
なんだろうか。少し違和感を覚えた。
確かに佐々木を見ると可愛いと思うが、一ヶ月前ほどの胸のときめきはない。
変だな。明典は首を捻る。
そういえば──
あの冷戦を終了させたのはアキだった。
自分が一人で研究室に居た時、汗だくになって入ってきた彼がおもむろに手を出すよう言ってきたのだ。どう見ても悪いことしか考えていないと分かる笑みを浮かべながら。拒否をすると駄々をこねたため、仕方なく手を出すと、その上に蝉の脱け殻が置かれた。おそらく、明典が驚くとでも思ったのだろう。
しかし、想像していたよりも一層薄い明典の反応に、アキはつまらなそうな顔をした。そのため、彼のパーマのかかった髪の上へその脱け殻を置いてやると、それが髪に絡んでしまい、二人ですったもんだすることになったのだ。先に仕掛けてきた癖に、遣り返されただけで文句を言ってくる彼に呆れながら、どうにか形を崩さないようにその脱け殻を取り除いた時、彼は不貞腐れてしまっていた。その割りには、その後普通に話しをすようになったのである。
あの時が、初めてだったなと明典は思う。彼の柔らかい髪に触れたのは。
この話を彼は覚えているだろうか。
覚えているなら、話題にのぼるぐらいはしたか。
覚えていないなら、あの時、この話をすれば良かった。
彼はどんな顔をしただろう。「そんなこともあったな」と、笑ったかもしれない。
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