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酒に酔っても食われるな7
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無事に慰安旅行から帰ってきてからというもの、最初の頃こそはこの胸の中にある悶々とした物を晴らすべく、山本と話し合った方が良いのではないかと思っていた明典だったが、日が経つにつれてその気持ちは段々とおさまっていっていた。というのも、特別意識して山本を避けているわけではないにも関わらず、会社で彼女と鉢合わせることが全くなかったからだ。
同じ会社で働いているとはいっても、もともとほとんど関わりのない営業部の社員とは滅多に顔を合わせることがない。社員食堂を利用している明典だったが、営業部は外で食べてくる人が多く、業績優秀な山本をそこで見掛けたことは数える程しかなかった。
滅多に顔を合わせないのだとしたら、わざわざあの日のことを自分から蒸し返すこともないか。そう思い出したのは旅行から帰って一週間経つか経たないかの頃だ。正直、自分も山本に会いたいわけではない。彼女に似た女性を街中で見るだけで、思考が一瞬停止するぐらいだ。会った所で、上手く話が出来る自信もなかった。
確かにあの慰安旅行にはこの部のほとんどの同僚が行っていた。しかし、あんなことがあったことを知っているのは自分と山本ぐらいだ。何かしら勘づいているだろう川嶋だって、実際に何があったのかは知らない。山本だってプライドがあるため、誰かにあの時のことを話すようなことはしないだろう。自分さえ黙っておけば、あの時のことは誰にも知られることはない。時間の流れに任せて忘れ、何もなかったことにするのが一番良い気がする。そんな結論に行きつき、ある意味肩の荷が降りた気分でいた明典は、それとは違ったことが気になり出していた。
あの旅行以来、妙に自分がオフィスの中で浮いているような気がするのだ。避けられている、というよりも、腫れ物に触れるかのような接し方をされている。あんなことがあったことで自分の神経が過敏になっているだけだろうと、出来るだけ気にしないようにしていたのだが、隣のデスクを使う同僚に書類を手渡した時、それが気のせいではないと分かった。
同僚はパソコンへ向かいながら船をこいでいたため、起こそうと肩を叩いたのだ。彼は明典と目が合うなり身を引いて飛び起きた。その時同僚が振り上げた手によって、明典の持っていた書類は弾き飛ばされる。「悪いっ!」と謝りながら同僚が床の上に散らばった書類を集めだしたため、明典も屈んで一枚の書類へ手を伸ばした時、焦っていた彼と手が触れた。その瞬間、手を弾かれたのである。
何が起こったのか分からず、目が点となる明典を見て、同僚もまずいという顔をした。しかし、すぐに「びっくりしたぁ」と上ずった声を出しながら誤魔化すと、いそいそと書類をかき集める。そして書類をデスクへ置くと、逃げるようにしてオフィスを出ていってしまった。その素早さに呆気に取られていた明典は、はたと気が付く。オフィスに居た同僚の大半が、自分たちのやり取りを一部始終見ていたのだ。普段なら笑いが起こりそうなことに笑いだす者はなく、明典が周りを見ると気まずそうに自分の仕事へ向かいだす。
何か、変だ。佐々木を見ると、彼は困ったように笑って自分の仕事をし始めた。川嶋は何事もなかったかのように、書類へと目を向けている。変な空気が漂いだしたオフィスで、明典はどうすることも出来ず、再び自分の椅子へ座ると仕事を再開した。視線が、妙に背中へ突き刺さる。
何か仕出かしてしまっただろうか。家に帰り着くと、その日仕事で起こった出来事を思い返しながら、明典はこの一週間のことを思い返した。しかし、これといって何も思い当たることはない。変なことをした覚えもない。一瞬、山本とのことが頭に過ったが、それはないだろうと否定する。結局、何が原因なのかは全く分からず、次の日出勤する頃には寝不足も手伝って明典は苛々していた。珍しく、出勤途中にあるコンビニで煙草とライターを買う。煙草を吸った所でこの苛々感がおさまるとは思えなかったが、あのオフィスに長時間いるよりかは気が紛れるだろう。どうかこの煙草の周りについている透明なフィルターを外すことなく家に帰っていけますように。そう願ったが、明典はあっさりとそのフィルターを外すことになった。
昼休み、会社内にあるオフィスの喫煙所の中でもオフィスから離れた場所を選んで煙草を吸っていると、他の部の社員が川嶋の名を口にしているのが耳に入った。別に聞き耳を立てていたわけではなかったが、密閉状態の狭い喫煙所では聞かないようにする方が難しい。背中を向け、換気扇が煙草の煙を吸っていくのを眺めていると、予想外の言葉が明典の耳に入ってきた。
「なんかさ、川嶋さんの部下にゲイがいるんだってよ」
二人の内、一人の男が笑いながら話し始める。それを聞いたもう一人は、「冗談だろ?」と怪訝そうな声を出した。
「だってあそこは川嶋の逆ハーレムだろ?なんか慰安旅行とかいって、夏場は自分の別荘に部下の男を囲ってるらしいじゃん」
「それがその男の中にゲイがいるんだってさ。噂だけど」
「川嶋も見る目ないなー。ゲイだったら相手して貰えないだろ」
「なー。まぁ、良いとこのお嬢さんは、男同士の絡みも嗜好の一つなんじゃないの?」
繰り広げられる会話に、身体がわなわなと震えてくるのが分かった。手に持った煙草の箱を、まだ数本も吸っていないというのに握り潰してしまう。苛々していたことも手伝ったのか、こんなに腹の底から怒りが沸いてくるのも久しぶりだったため、明典は軽い目眩を覚えた。
吸っていた煙草の火を消し、それを吸い殻を捨てる場所へ落とすと、明典は握り潰してしまった煙草の箱を設置されてあるゴミ箱へと捨てに行く。ちょうどその時、噂話に花を咲かせていた二人の横を通ったため、「ちょっといいですか」と声を掛けると、二人を睨み付けた。
「川嶋さんは、そんな女性じゃないですよ」
それだけを言い残し、喫煙所から出る。川嶋を面白く思っていない社員がいることぐらい知っていたが、自分の聞こえる所でそんなことを言われると、無性に腹が立つ。彼女はそんな人ではない。彼女は凄い人なのだ。あの慰安旅行だって、誰かが僻みで根も葉もない噂を流したに違いない。それが一人歩きしてしまっていることに、我慢することが出来なかった。何も知らない奴が、勝手なことを抜かしやがって。じゃあお前が、一から部を作ってみろ。ただでさえ社会から扱いに困ると煙たがれているゆとり世代やさとり世代を、大量に抱えてみろ。抱えて、それで川嶋のような部を作り上げてから口を開け。
「くそっ!」
オフィスに入ろうとした時、思った以上に強くそのドアを開けてしまったせいで、酷い音が出た。既に昼休みから帰ってきていた同僚の視線が、一気に明典へと集まる。しかし、明典と目が合うと、また白々しく視線を戻した。
そういえば、川嶋の部下にゲイがいるとも言っていたな。自分のデスクに戻りながら、喫煙所の二人組が話していたことを思い出す。他部署の社員がそんな噂を知っているのだ。うちの部に届いていないはずがない。同僚に感じていたこの一週間の違和感はそのせいか。他部署の社員は川嶋の部下の中にいるとだけ知っていたが、この部ではそれが明典だと分かっているのだろう。それについても、段々と腹が立ってくる。
真実ではあるが、一体誰がこんな噂を流したのか、だいたい検討がついた。山本だろう。彼女の、腹いせだろう。あの痴女め。面倒臭いことを起こしやがって。しかしそれについては自分にも非があることを思い出すと、高まった熱も一気に沈下してくる。だからといって、苛々は一向におさまらない。
そんな時、肩を叩かれた。
「宮家。ちょっとおいで」
川嶋だ。彼女はいつもとは違う真剣な顔つきで明典の後ろに立っていた。顎でオフィスのドアを指す。外に出ろということか。川嶋は先に歩き出した。明典もそれに続く。背中に無数の視線が突き刺さるのも、もう慣れてしまって何も思わなかった。
「こんなこと一々言いたかないけど、あんた空気に出過ぎ。そこんとこ直しなさいって入社した時から言ってるよね。ただでさえ無愛想な顔してんだから」
連れていかれたのは会社の屋上だった。何か言いたいことがある時、川嶋は大抵、誰もいないこの屋上を使うのだ。出て早々、彼女は手すりに凭れ掛かり、明典を見据えながらそう言った。「……すみません」と、明典は小さな声で謝る。川嶋の顔は怖い。これはそうとう、怒っているに違いない。
彼女はそんな怒りを鎮めるためか、頭をかきながら溜め息をついた。「まぁ、気付いててほったらかしてた私も悪かったけど」と言う。
「あんた、全く気付いてないみたいだったし。でもその様子じゃ、さっきの休憩時間にでも聞いちゃったんだね」
どうやら川嶋は、ゲイだという噂が流れていることに対して明典が腹を立てているのだと思っているようだ。確かにそれもあるが、それ以上に違う理由がある。しかし、それをわざわざ本人へ言う気にはならない。
「悪かったね」
「謝らないで下さい。それに本当のことですし。ちょっと遣りにくいですけど、その内みんな慣れますよ」
「腹立ててた割には、やけにあっさりしてるじゃん。もしかして、違うことで腹立ててたとか?」
「……まぁ、いろいろとありますよ。俺にも。空気に出てたならすみません。気を付けます」
話の茶を濁しながら、明典は川嶋に向かって頭を下げた。表情筋はあまり動かないが、空気に出やすいことはもともと指摘されていた部分だ。気を付けよう。そう思いながら顔を上げると、目の前の川嶋からは怒った雰囲気が抜けていた。「ちょっと話そう」と、明典に横へ来るよう親指で示す。明典が川嶋と同じように手すりへ凭れ掛かると、彼女は「満子を誘ったのが、そもそも間違いだった」と溢した。その口振りに、川嶋もこの噂を流したのが山本だと思っているのだと分かる。
「悪かったね」
「だから何で、川嶋さんが謝るんですか?」
「何でかなー?あの子が仕出かすことって、何でか全部私のせいな気がするんだよね。自意識過剰なのかもしんないけど。でもそういうのって、ない?」
そう振られ、明典には思い当たる男がいた。今度ははっきりとその顔が思い浮かぶ。「……分かる気もします」と返すと、隣の川嶋は苦笑した。何故川嶋が山本に対してそんな風に思ってしまうかは知らないが、自分と同じようなことがあったのではないかと、なんとなく思う。「山本さんと、付き合ってたんですか?」と尋ねると、川嶋は首を横に振った。予想は外れたか。しかし彼女は「でも、酷いことをしたって自覚はある」と付け足した。
「……しっかし、何も変わってないなぁ、あの子は」
「何がですか?」
「やることが。私も高校の時一回やられたんだよね。レズビアンだって」「それは……今回と同じですね」
「でしょ?噂流すの上手いのよ。いつの間にかそこら中に広まってるし、自分が流したことは絶対バレないようにするし」
「でも、当人同士は気付いてるじゃないですか。それってあまり意味ないっていうか、山本さんの利になることってないですよね?」
「そうそう。だから別に何度もそんなことしてるわけじゃないと思うのよ。あの子の絶対に許せない琴線に触れた時だけ。でも、何だかなぁ。35にもなってまだ同じことしてるんだって思うと、ちょっと……残念だよね」
川嶋の真っ直ぐ前を見つめる目は、遠くを見ているようで、どこか悲しそうだった。そんな山本のことでさえも、彼女は自分の責任のように感じているのかもしれない。35にもなって、10代のことをこんなにも引き摺るのか。しかし、明典自身も他人事ではなく、未来の自分を見ているようだった。
川嶋も、自分の仕出かしてしまったことに後悔しているんだろうか。やり直せるものならやり直したいと、思っているんだろうか。しかし、「満子のことは私に任せて」と言った彼女は、後悔し続けるよりもその仕出かしてしまったことを清算しようとしているように見えた。このまま償い続けるのではなく、ケリをつけようとしている気がする。そこは未だに考えあぐねている自分とは違う。
もしかすると、そのために山本を旅行に誘ったのかもしれない。その予想も、「巻き込んで悪かったね」という川嶋の言葉が肯定しているように思えた。
「宮家はいつも通り仕事してね。部下がゲイでも私は一向に構わないし」
川嶋は明典の肩を叩く。「あんたの仕事ぶりは感心してるんだから」と笑った。お世辞かもしれないその言葉を、今は敢えて素直に受け取る。少しでも川嶋に認めて貰えているということが、こんなにも嬉しく感じるとは思わなかった。
川嶋とオフィスへ戻ると、再び無数の視線に迎えられたが、嫌な気分はしない。むしろ川嶋に褒められたことで気分の良くなった明典は、残りの仕事を片付けようと勢を出していた。慰安旅行から帰ってきて以来、一番気持ちが上がっているかもしれない。相も変わらず腫れ物に触れるような接し方は続くが、それを一々気にすることもなかった。
「宮家ー。お前今日この後予定あるか?」
定時が過ぎた頃、残業をしている明典に隣の同僚が話し掛けてきた。普段何かと絡んでくる彼とは、あの書類の一件から挨拶ぐらいしか交わしていない。そのせいなのか、少し緊張した面持ちで気まずそうに話しかけてくる。
無理なんてしなくていいのにな。そう思いながら、特に予定はないことを伝えると、「飲みいかね?他の人達も誘ってるし」と言ってきた。
慰安旅行で散々飲んだというのに、まだ飲むのかと過らないでもないが、せっかく緊張しながらも誘ってくれたのだ。しかも明日は休みである。行ってもいいかと、明典はその誘いに乗ることにした。
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