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【第2部】カルボナーラ
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桜が咲いて、雨が降り、桜が散ると季節はもう春真っ盛りだった。あちらこちらで五月の大型連休の話題すら出始めている。
エアコンを使わなくなって久しい。時には汗ばむ陽気の日もあり、店のプレイルームでは冷房が入っていることもある。
名目上、ルームシェアとして結希が与えられた部屋には相変わらず床に直接敷かれた布団と、クローゼットに収まる幾ばくかの衣類しかない。元々の荷物が少ないことに加え、寝る場所も結局は圭悟と共有しているため自室は殆ど使われていないも同然だった。
七階の自宅に至ってはもっと酷い。
ここへは帰らない日の方が多い。
不審者騒ぎの後始末として店が清掃会社を手配してくれたため、当時の面影はない。ただ風を通さないだけでこんなにもよそよそしくなるのか、と玄関の扉を開けるたび思う。
クリーニングから帰って来た冬服を仕舞い、春物の衣類を出す。店に置きっ放しにするボディソープとクリーム、ローション、うがい薬やマウスウォッシュのストックから必要なものだけ取り出し、春物衣類の入った紙袋に放り込んだ。
仕事道具のストックを十二階の家へ置く気にはなれない。
七階の扉を閉めて鍵を掛ける。
荷物を抱えて帰った十二階の家では圭悟がキッチンに立っていた。カウンターからは見えにくい角度に設置されたリビングのテレビからは、平日昼のバラエティ番組が垂れ流しになっていた。
「起きてたんだ?」
「腹減って目が覚めた」
「そりゃあれだけ吐けばね」
休学中だと言っていた圭悟は、春になっても復学しなかった。仕事が楽しくなってきたからこの一年は上を目指してみたい、と彼は言った。その理由に自分が関与しているとすれば、嬉しさよりも申し訳なさの方が先立った。
が、選んだのは圭悟だ。自分の選んだ道がどこへ向かおうとも、圭悟はそれを人のせいにはしないだろう。
仕事柄、圭悟は大体酷く酔っ払って帰ってくる。これでもマシになった方だというのだから、コンビニで待ち合わせて帰っていたあの期間は何だったのかと思う。
相当仕事をセーブしていた、ということだ。
「食べるか?」
「うん。何?」
「カルボナーラ」
「それって家で作れるもんなの?」
「ちゃんとしたやつじゃなけりゃ意外と簡単」
カウンターキッチンの中で得意げに圭悟が笑った。この容姿で性格で、とんだ家柄な上に頭も良くて喧嘩も強くて料理まで上手いとくれば、もはや欠点がないのが欠点だ。世の中は不公平にできている。荷物を自室へ置いてくる、と言い残して結希はダイニングを後にした。
モテるだろうな、とふと思う。モテない筈がない。高校の頃もクラスの女子たちの間で名前を聞かない日はなかった。
荷物を整理して戻ると、すでにテーブルにはカルボナーラとサラダとスープが並んでいた。控え目に盛り付けられているのは結希が夕方から仕事だからだ。仕事の時は基本的にあまり食事を摂らないことを圭悟は知っていた。
ダイニングテーブルからは遠いリビングのテレビは相変わらず付けっ放しだ。昼間から静かな空間で二人きりでいるよりは余程居心地がいい。テレビはつけたまま椅子に座る。思えばどちらの椅子に座るか、最初から決まっていたような気がする。同じ椅子にしか結希は座ったことがない。そうやってこの部屋で、なし崩し的に馴染んでいくのはとても気が引けた。
「あのさ、俺一緒に住んでて困らない?」
「なんで?」
「女の子連れ込めないでしょ」
「俺の生活のどこにそんな余裕があるんだ」
確かに。仕事と睡眠とその他日常の雑務で一日が終わる、それは結希も変わらない。
葉っぱを千切っただけのサラダと、余り物野菜の細切りに湯を沸かしてコンソメを解いただけのスープと嘯く圭悟の手料理は、外で食べるものより味付けが少し薄くて家庭の味がする。中学二年で母親が出て行って以来、口にする機会のなかった味を楽しむ。圭悟と暮らすようになって、しばしばこういったまともな食事にあり付けるのは素直に喜ばしい。
「そっちは? ……結希の場合は、連れ込むのは男になんの?」
「ヤれればどっちでもいいかな」
「今サラッと最低なこと言ったな」
「実際、そんな余裕もないのはお前と同じだし」
「忙しい?」
「まあね。この時期は新人が入っててんやわんや」
互いの多忙さを笑い合う。仕事が好きで、それを理解し合っているから成り立つ会話だった。
店では新人が何人か入って、すでに何人か辞めた。十八歳以上の定義は、十八歳以上の高校生を含まない。この時期は高校を卒業したばかりの若い新人もちらほらいる。
一生懸命教えてもすぐに辞められてしまうのは何とも言えない疲労ばかりが蓄積する。だが気合い一つで続けられる仕事でもない。仕方のないことだった。
「で? ヤれない俺とこうして一緒に暮らしてんのはなんで?」
話題が際どい方向へ転がったのを感じ、結希は一瞬食事の手を止めた。テレビではバラエティなのかニュースなのか分からない情報番組が流れて耳障りだった。きっと、雑音のせいで油断したのだ。結希も、そして圭悟も。
「契約書に判子押したから」
「セックスしない契約はしてねーけどね」
「じゃあ、俺が、しようって言ったらどうするの?」
「嫌なら俺は断るって前から言ってる」
何様。
この話題はいつまで経っても平行線だ。
少々うんざりした様子で結希はフォークを置いた。パスタだろうがラーメンだろうが箸の方が食べやすい。席を立つと会話から逃げたと思ったのか、優雅にフォークを使いこなす圭悟の視線が追いかけた。食事の作法は一番育ちが出やすいらしい。
箸を取って戻ると圭悟は納得したような表情でフォークを口へ運んだ。
「そういうつもりで一緒にいるわけじゃない」
「なんで結希は、俺がお前のこと抱かないと思ってんの?」
「なにそれ。そんなの見れば分かる、俺いちおうプロの端くれだから」
何度も繰り返すこの話題のせいで心が折れそうになる。修行僧の覚悟で日常に挑んでいても、こうして気持ちを弄ばれるのは気分が悪い。どうせ圭悟への想いなどとっくにバレているのだろう。
どこか苦い表情で圭悟が視線を逸らした。それも毎回同じだ。そこで何故圭悟の方が傷付くのか全く意味が分からない。毎回傷付く癖に同じ話題を繰り返したがるのは更に分からない。
(馬鹿馬鹿しい)
味のしなくなったカルボナーラを箸で啜った。せっかく和んでいた雰囲気をぶち壊されて怒りすら覚える。黙ったまま食事を終えると結希は圭悟へと箸を向けた。
「俺は言わないから安心して。そっちがヤりたいって言うなら金払ってくれたら付き合うよ。けど、裏引きする気は無いんで店を通してください以上ご馳走様でした」
笑顔で一気に吐き捨て、食器を流し台へと運ぶ。出勤までまだ時間があったがこれ以上ここに居たいとは思えなかった。例え圭悟の方が先に出掛けることになっても、圭悟の気配が色濃いこの家には居たくない。
「悪かったって。機嫌直せよ」
困ったように圭悟が笑う。反省が足りないというよりも、結希が仕事に価値を置いていることを喜んでいるようでますます腹立たしい。こうして片想いであることを突き付けられる。何度も。
――俺、ちゃんと友だちできてるでしょ?
それを確認する勇気はなかった。
それを試されているのかと気付いた。
テレビからは近所で起こった殺人事件の話が流れていた。犯人の捕まらない焼死体の身元が判明したのはもう二日も前のことだ。お堅いニュースが報道して、その焼き直しをバラエティめいた昼番組がオーバーな推察を交えて垂れ流す。
圭悟が顔を顰めてテレビを消しに行った。
「気にしてないよ」
しん、と静まり返った部屋で結希は少し笑ってみせる。それは圭悟の言葉に返したものではない。圭悟にもそれは分かっていた。
「嘘つくな」
「嘘じゃない。もう気にしてない。圭悟も気にするな」
珍しく結希は語気を強める。
殺された被害者を二人は知っている。新聞で生前の写真を見て初めて名前を知った。
「俺たちには関係ない話だから。俺はレイプの被害者で、圭悟は助けてくれただけ。関係ないよ」
あれから類似店が潰れたという噂は聞かない。かといって新たなトラブルが起こる兆しもない。トカゲの尻尾切りのように人が死んで、全てが片付いた。或いは、牽制ぐらいにはなったのだろうか。
「そうだな」
圭悟の顔からは表情が抜け落ちていた。そこには何の苦悩も見えなかった。ただ、冷たく感情を切り捨てた後の残骸がそこにあった。
きっと、自分も同じ顔をしているのだろうと結希は思った。
自分たちは表の人間で、裏の話には関与しない。圭悟の勤めるあの上品さと醜さの混ざる店にも同じ仕組みがある。
同じ世界に生きている、そう錯覚するだけでどうしようもなく熱くなれる。この状況で欲情する自分はきっとおかしい。
「今日、泊まり?」
「さあ。予約ないけど分からない。そっちは?」
「客次第」
何事もなく二人で笑う。
それはまるで慰め合うかのようだった。
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