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夕方、無事にオペも終わり、一旦医局に寄った後、日下部はまた山岡の病室に向かっていた。
「あっ、ちぃおった」
「ん?」
ふと、病棟の廊下で谷野と出くわす。
「とら?どうした?」
「いや、山岡センセ、どや?」
見舞い、と笑う谷野に、日下部は小さく首を振った。
「そっか」
「うん」
「おれも一緒に行ってええ?」
ニカッと笑う谷野に、日下部は黙って頷いた。
連れ立って訪れた山岡の病室で、日下部は儀式のように必ずノックをする。
けれどもやはり、返事は返らない。
そっと開けたドアの向こうには、やっぱり器械に囲まれた山岡が静かに眠っていた。
「山岡?」
ゆっくり近づいた日下部の目に、何の反応も示さない山岡の姿が映る。
後に続いた谷野も、穏やかに眠っているようにしか見えない山岡の顔を覗き込んだ。
「ほんまに昏睡なん?叩いたら痛い!とかゆうて起きひん?」
言う側から、すでにベチンと山岡の額を叩いた谷野に、日下部が苦笑した。
「やめろって。俺も何度も試したよ」
叩いたり抓ったり…と苦笑する日下部に、谷野も乾いた笑いを漏らした。
「ほんまに無反応なんやな。なんでやろな。なんでこんな…」
震える声を漏らす谷野は山岡の過去を知らない。
だけどただそれが生ぬるいものでなかったことはとっくに察している。
「うん」
「山岡センセはさ、きっと、ずっと辛い思いして、ここまで来てんやろ?」
「うん」
「重いもん背負って、必死で生きてきて…そんでようやくちぃに出会えたんやろ?」
以前、山岡が酔っ払ったときに、日下部が灯りだと言っていた言葉を谷野は思い出していた。
「そんな人が、なんでまた、なおもこうしてキッツい目にあわされんねや…せっかくちぃと幸せになれる思うて…ようやく掴んだんやろうに…」
震える声で言葉を紡ぐ谷野に、日下部は静かに頷いた。
「とらは鋭いし、賢いから、きっともうわかっただろうけど…」
「うん」
「山岡、麻酔から覚めたとき、おかあさんって呼んだだろ?」
「あぁ」
「でも、山岡に母親はいない」
サラリと言った日下部に、谷野がヒュッと息を飲んだ。
「それって…」
恐る恐る日下部を窺う谷野に、日下部は静かに頷いた。
「とらを信用して言うけど。山岡は幼い頃、母親と呼ばれる人物に捨てられてる」
ギュッと眉を寄せて告げた日下部に、谷野はあのオペの日に日下部の様子がおかしかった理由がわかった。
「だから…」
「うん」
「っ、それはつまり…」
日下部が何故、山岡の許可なくこの事実を自分に教えたのか、賢い谷野はすぐに理解した。
「あのとき山岡センセは確かにおかんて口にした。それが昏睡の原因か」
「多分、な。やっと笑うようになったのに。顔を上げて前を見るようになったのに。散々苦しんだ過去から抜け出して、未来を歩こうと前を向いたところだったのに…過去がまた、なおもこうして山岡を引きずって行ってしまう…」
辛そうに唸る日下部を、谷野は黙って見つめた。
「俺がいる。俺がいるのに…。なぁ、とら。山岡はさ、俺が灯りだって言ってくれてたんだろ?」
「あぁ、言っとった」
「ならば…。ならば必ず取り戻す。過去の亡霊なんかにくれてやるか。俺は必ず、山岡を目覚めさせる。何がなんでもな」
ニコリと強気に笑う日下部に、谷野も力強く頷いた。
「ちぃがおるんや。きっと山岡センセは大丈夫や」
「ん」
「今日も泊まるん?」
「まぁな」
「せやけどちぃ?ちぃも少し休みぃ」
「ん~?大丈夫、休んでいるよ」
ニコリと笑う日下部の笑顔が偽物だと、谷野はアッサリ見破った。
「嘘やん。駄目やで、ちぃ。昨日も泊まったんやろ?いや、山岡センセがこうなってから、何日家に帰っとらん?」
ん?言うてみ?と詰め寄る谷野に、日下部は苦笑を浮かべた。
「帰ってるよ。着替えや風呂に。それに、山岡の洗濯物や着替えも持ち帰ったり持ってきたり…」
「じゃぁ言い方変えようや。何日家で寝とらん?」
「……」
「気持ちはわからなくないで?せやけど、こんなん続けてたら、ちぃが壊れるやん」
メッ、と日下部を小突く真似をする谷野に、日下部はただ苦笑した。
「俺は大丈夫だよ」
「あんなぁ…」
「だって、眠れないんだ。家に帰っても、結局山岡のことが気になって…。だから毎晩ここで眠る。山岡の手を握って…一向に握り返してくれないけれど、体温はある。そうして手を繋いでいるとホッとする。ただ側にいたい」
ふわりと笑う日下部に、谷野の痛々しそうな目が向いた。
「ちぃ…」
「だから今夜も泊まる。でも大丈夫。本当に無理だと思ったら、ちゃんと帰って休むから。俺が守らないとならない命は、山岡のものだけじゃないことはちゃんと分かってる」
俺は医者だ、と堂々と言う日下部に、谷野はそれ以上何も言えなかった。
「分かった。じゃぁおれはそろそろ帰るけど」
「うん、おやすみ」
「ほんま、無理すんなや」
「分かってる」
ニコリと笑う日下部に背を向け、谷野は静かに病室を出て行った。
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