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そんな日から数日。
ふと、手術終わりに向かった休憩室で山岡は、またも里見と遭遇していた。
2人の他に人影はなく、ドアをくぐった山岡の目線の先、自販機の前で、ぼんやりと佇んでいる里見が見える。
ゆっくりとそちらに足を向けた山岡は、ふと、その里見の足元に、バシャリと茶色の染みが広がっているのを見つけた。
見ればそこには買ったばかりと思わしきカップも1つ転がっている。
「あ、えっと、里見先生?」
そろり、と側に近づいた山岡に、里見がハッとしたように顔を上げた。
「あっ、山岡先生っ。やだ、私、ごめんなさい」
慌ててしゃがみ込み、多分落として溢してしまったのだろうカップを細い指先が拾い上げる。
「いえ…。あの、大丈夫ですか?」
雑巾は…と、部屋の隅の方に設えられている流しを見ながら、山岡がそちらへ向かう。
「本当、すみません。ちょっとぼーっとして、手を滑らせちゃいまして」
床を拭くものを取ってきた山岡に、恥ずかしそうにへらりと笑った里見を、山岡は難しい顔をして見下ろしていた。
「手を、滑らせた…?」
「あ、はい。私結構ドジで。こういうの、よくやっちゃうんですよね」
この間も、と笑う里見に、けれども山岡の顔はにこりとも笑顔を返さなかった。
「あ、の、山岡先生?」
「里見、先生」
「っ、は、はい。あの、どうしました?」
ジッと見え難い表情の中で、真っ直ぐに里見を見つめてくる山岡の視線に、里見が怯む。
ぎこちない笑みを浮かべながら、コテン横に倒された頭が、困ったように山岡に向いていた。
「山岡先生?」
「っ…里見先生」
「はい」
「違ったらすみません。それに、オレは神経内科や脳外科は専門外なんですけど」
「っ!」
そろり、と口を開いた山岡に、ヒュッと短く息を呑んだ里見の、その反応こそが、山岡の確信に繋がる証だった。
山岡が、力を得たように、スッと背筋を伸ばす。
「里見先生、もしかして、手や足が動きづらいとか、ものを持つとすぐ疲れてしまったり、力が入らなかったり…そういうことが、度々あるのでは、ない、ですか?」
窺うように尋ねた山岡に、里見が、くしゃりと顔を歪めて、フルフルと首を振った。
「そんなこと…」
「ありませんか?」
ジッと真意を問うように見つめてくる山岡の視線に、里見はきゅっと唇を噛み締めて、そのあと諦めたように深く息を吐いた。
「はぁっ。先生には、隠せませんか」
あはっ、と笑う里見が、降参、と両手を上げて、ゆっくりと頷いた。
「おっしゃる通りです。ひと月くらい前から、小さな違和感が」
「っ…里見先生」
「初めはうっかりものを取り損ねたり、小さな段差で躓いてしまったり。でもそんなの、私の不注意や、ちょっとした運動不足だからって、そう、思っていて」
「……」
「だけど…それだけじゃ説明がつかないようなことが、何度もこの身体に起きるようになっているのも事実で…それを自覚もしていて」
ふわりと儚げに微笑んだ里見を、山岡が痛いものを見るように見つめていた。
「なんていうのかな。突然こう、フッと手から力が抜けてしまう感じがしたり…足が1歩も前に動かせなくなってしまったり」
「里見先生…」
「やっぱり普通じゃないですよね。気づいちゃいますよね…」
「そ、れは…」
「先生の目にも気になっちゃったなら、きっとこれはもう、そうかぁ。逃げらんなそうだなぁ」
あは、と笑う里見が、握った手の中のカップを震わせた。
「どこで気づきました?」
「それは…」
「最初に書類をばら撒いて拾い損ねてしまったときですかね?」
「っ…」
肯定も否定もしない山岡に、里見はふわりと微笑んだ。
それはそれは切なげに。
「ねぇ先生。私…」
消え入るような声で呟かれたのは、アルファベット3文字。難病とされるその病の名を口にした里見に、山岡はふらりと俯いて小さく首を左右に揺らした。
「分かりません。だけどただ…」
「はい?」
「受診や検査は早い方が」
ぐっと息を詰めて、キッと顔を上げ、里見を見つめて真摯に告げる山岡に、里見は不自然なほどに明るく笑った。
「ですよね~。神経内科、かな。うちにもあったなぁ」
「はぃ」
「でも、院内はやだな」
あはっと笑う里見が、不意にぐいっと山岡との距離を1歩詰めてきた。
「ねぇ先生」
「っ、はぃ…」
「このこと。内緒にしてください。他の誰にも言わないでもらえませんか?お願いします」
ぎゅっと拳を固く握り、深く頭を下げてくる里見に、山岡はただ気圧されてコクリと頷いた。
「大丈夫です。ちゃんと診てもらいます。それから…診断が、ちゃんと出てから…私が、自分で、ちゃんとしますから…」
「はぃ…」
「あっ、でも1つだけ」
「え…?」
「もう1つだけお願いが」
「な、なんですか?」
「ふふ、先生、私の症状に気づいちゃったのが運の尽きだと思って。PHS!教えて下さい」
個人携帯とは言いませんから、と笑う里見が、ポケットから取り出したのは、医療用の赤いストラップのついたPHSだ。
「相談相手。私、こうして気づいてくれちゃって、私の背中を押した、先生にロックオンしましたから」
ほら早く、と、PHSを振って見せる里見に、山岡は「えっと、その…」なんてオロオロしながらも、結局里見の押しに負けて、自分に割り当てられているPHSの番号をポツポツと告げる。
「ふふ、ありがとうございます。このことを知るのは、先生と私だけの、秘密です」
にこっと悪戯っぽく笑う里見は、どこまでも明るい。
じゃぁよろしくお願いします、なんて言い置いて去っていく里見を見送りながら、山岡は呆気にとられてその場に立ち尽くしていた。
そうして数分後。
またも、何やら手術の大反省会というよりは、ただの言い合いにしか聞こえないやりとりをしながらガヤガヤと休憩室に入ってきた日下部と原を、ぎこちない笑みで迎えることになっていた。
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