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(8)
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静寂も病院も嫌いだ。
静かな空間は明るい彼女がいないことを肌に感じてしまうから。
白く消毒液の匂いのするその場所は彼女と別れた場所であるから。
彼女の喪失感に打ちひしがれている俺の部屋に、理代子と旦那がやってくる。
腕には赤ん坊のこう太を抱き抱えながら。
「…じゃあ、私達行くからね」
その時の俺はうずくまって何も答えなかった。
ただ、ひたすらパティの死を受け入れられなくて混乱していた。
涙は枯れてただ俺から最愛の人を奪った神を呪っていた。
去っていくこう太なんか見向きもしないで。
玄関が閉まった音がする。
十一年前、俺はその音を聞いてからの記憶が定かでない。
だけど。
夢の中の俺はその音を聞いた瞬間、部屋から飛び出した。
裸足でアパートの階段を駆け下りると、アパートの大家さんに挨拶している二人の元に向かう。
「俺が育てる!!俺の子だ!!」
十一年前に言えなかった言葉を、俺は夢の中で叫んだ。
(8)
夢の中で、俺は赤ん坊のこう太を初めて抱いた。
予定日よりも早く生まれてきたこう太はびっくりするくらい軽く、小さく、そして暖かった。
現実でこう太は十年間、理代子夫妻に育ててもらった。当時長女を四月に生んだばかりだというのに、経済的に一番余裕があるということ、何より理代子がパティと親友だったからということもあって彼女が強く申し出てくれたからだ。
当時はわからなかったけど、乳児二人を育てるというのがどれだけ大変なことなのか色々な人に言われてよくわかった。感謝しても足りないし、ホント頭が上がらない。
だけど、夢の中では俺が育てると宣言した所、今度は保村夫婦や華田も交えた大会議に発展してしまったので心の中で笑ってしまった。夢のくせにやけにリアルだな、と。
華田が俺を睨みつけながら「お前、働いてもいねぇのに何考えてんだ?」と不機嫌そうに言った。確か六月に、こいつのとこにも垓が生まれていた。さらには、華田は大学病院の外科とかに配属されたとかで多忙な日々だった。
だというのに、わざわざ俺のために時間を割いてくれたことがありがたかった。
「子供抱えて路頭に迷う気か?」
華田の鋭い声は昔から怖い。
でも俺は萎縮することなく「就職する」と答えた。
すると今度は、保村が俺を睨みつける。
「お前、子供自分で育てるっていうけどさ、一人でできるほど甘くねぇんだかんな。一人でミルクやって、おしめかえて、ぐずったら泣き止ませなきゃならん。何時間おきでそれを繰り返すのに、同時進行で就職活動できると思うのか?ただでさえ、お前家事すらまともにできねぇのに?」
「全部やる。シッターでも何でも頼んで就職する。家のこともちゃんとやる」
「シッターなんてそんな金ねぇだろ?あー、パティの親御さんは無理だけど、お前んとこの親御さんは?頼れないの?」
俺が無言で首を振ると、大きなため息をついた。
そしたら今度は、理代子の旦那が口を開いた。
「…石川くんの生活が落ち着くまで養護施設という手もあるんだよ」
その言葉に大声が出そうになった。
だけど、隣の部屋でこう太が寝ているのを思い出し、ぐっとこらえて声を抑えた。
「それだけは嫌だ。離れたくない。俺が、ちゃんと育てる」
「だけどね、君は就職していない。収入はアルバイトの収入だろ?すぐに正社員になれればいいけど…」
「それか、アンタが安定するまで私の家で育てるわ。仕事と乳児の育児なんて、アンタには絶対無理!!ね、そうしましょう?」
「絶対に嫌だ!俺が育てるんだ!」
思わず大声をあげた途端、隣の部屋から「うぅえ~ん!!」とこう太の泣く声が聞こえてきた。
あぁまずい、と慌てて立ち上がると、こう太を抱っこしながらマリアちゃんが隣の部屋から出てきた。
「石川さん、何か汚しても大丈夫なタオルありますか?」
「え?あ…ある、と思うんだけど。パティどこにしまったのかな…バスタオルならあるんだけど…」
「じゃあ、それも買いに行きましょうね。あと、あとで熱志の時に使っていた枕持ってきますね」
「ま、枕?」
「枕っていうよりも、クッションかしら?私が授乳する時に下に敷いて使っていたんだけど、意外と安定するんですよ。あと、哺乳瓶と…」
指折り数えてブツブツ買う物を挙げていくマリアちゃんに、一同ポカンとした顔になった。
旦那である保村が「え?」と聞き返すとマリアちゃんはニッコリと笑った。
「日中は私が面倒見ますから、その間に石川さんは就活してください」
「えぇぇぇぇ!?」
俺以上に保村が大声で叫んだ。
その声にこう太がまた泣きそうになったから、マリアちゃんがシーっと人差し指を唇の前にだしてちょっと怒った。
「え?マジで?」
「マジですよー。んー、おっぱいが出ればいいんですけどねぇ」
そう言って巨乳をユサ、と揺らしたので俺と理代子の旦那の目線が釘付けになる。
「そ、そしたら私の家でも…」
「理代子さんのとこには、二歳のお兄ちゃんと五ヶ月の娘ちゃんがいるじゃないですか。うちには熱志しかいないし、その子も今幼稚園で昼間いませんし、五歳なのでまだそちらよりは手がかかりません。任せてください」
「あのな、マリア。そりゃ今はいいかもしれないけどさ…」
マリアちゃんは保村を無視して俺の元に歩寄ってくる。
その笑顔はすごく柔和で、人妻なんだけど俺までちょっと胸が高鳴る。
「石川さんにこの子を育てられるとは私は思っていません」
いつも温和なマリアちゃんから聞いたことのなような声に、部屋の空気が固まる。
俺も体が固まってしまい、俺を見つめるマリアちゃんを凝視したまま動けない。
「無職だし、家事は出来ないし、料理も全くできない。お酒飲んではグダグダになって、自分にだらしない。そんなあなたをフォローする奥様はいない。だから、あなたがもし父親として相応しくないと思ったら、私は遠慮なくこの子を貰っていって、私の子にします」
「ふぁ!?」
保村が奇声を発すると、一人オロオロしながら「でも、この子金髪だぜ?」と混乱のせいで頓珍漢なことを言った。
でもマリアちゃんは冷静に「だったら私も金髪に染めるわ」と答えた。
俺はというとすっかりマリアちゃんの雰囲気に飲まれてしまい、彼女の出すオーラに頬を撫でられているような、言い知れない恐怖を覚える。
「真剣になりなさい」
初めて見る彼女の真顔から放った言葉は強く真っ直ぐで。
見えない何かは確実に俺の心臓を触ってくる。
それによって、吐き気のような焦りを覚える。
「あなたにはこの子しかいないのなら、もっと必死になりなさい。引き離されるのが嫌だと言うなら、誰からも引き離されないような姿を見せて。今のあなたの姿は、おもちゃを取られるのを嫌がる子供でしかないの」
マリアちゃんは熱志の生まれた二年後くらいに病気をしてしまい、これ以上子供を望めなくなってしまったと保村から泣きながら聞いたことがある。
元より子供好きみたいだから、現実ではこう太だけでなく華田のとこの子供達や熱志の彼女達もすごく可愛がっている。
『あなたにはこの子しかいないのなら、もっと必死になりなさい』っていうセリフは、現実でも言われた気がする。
でも、その時はもう少し優しい口調だった気がしないでもないけど。
このままだと本当にこう太をマリアちゃんに取られる。
不安な波のように押し寄せ、俺を頭から飲み込む。
俺はその艶やかな睫毛で縁どられた茶色い瞳をしっかりと見つめたまま、大きく頷いた。
そして彼女の正面に座るとそのまま床に擦り付けるように頭を下げた。
「日中の世話、よろしくお願いします。仕事の方は今月中に目処を立てて必ず報告します。家事も覚えます。料理も作れるよう覚えます。酒もやめてその子の教育も躾もしっかりやります。だから、お願いします。その子を俺から奪わないでください」
マリアちゃんは穏やかに微笑むと、静かに眠っているこう太を俺に渡してくれた。
◇
こう太に哺乳瓶でミルクをあげながら今後のことを考える。
明日の朝にはこう太をマリアちゃんに預けて、師匠の元に行ってこれからのことを話し合い、終わったらその足で職安に向かう。
華田に「お前、本気で書道家になんの?」と聞かれて自分の今後を考えた。この当時、俺は師匠のアシスタントとして小銭を稼いでいた。多分、森崎くんよりも緩い感じだけど。
それと同時並行で作品なんかも作っていたけど、大したもんじゃない。
「いや…就職する」
まだちょっと甘い考えがあるんだけど、先生に仕事はないか頭を下げて聞いてくる。先生は顔が広いお人だ。アシスタントを降りることと、何かいい仕事のツテはないかと訪ねてこようと思う。
そうじゃなくても、落ち着いたら一度相談にきなさいと言われた。
我来先生は俺にとって親以上の存在だ。いつも、頼りにしてきた。
ミルクを良い飲みっぷりで飲み干したこう太にゲップをさせる。
こう太からふんわりと甘い匂いがして幸せな気分になる。
「ぐぉ」と、小さなゲップをしてくれたのでちょっと眠そうにしているこう太に「こう太、美味いミルクだったなぁ」と話しかけた。
こう太は予定日よりも早く生まれたのでものすごく小さい。
だけど、ほっぺたは柔らかいし唇もぷっくりとしていて、すごく可愛い。
薄いけれど髪の毛は金色だし、細く開く瞳も綺麗な青色だ。
パティそっくりだから、可愛く成長する。
人差し指の関節部分でそのぷよぷよの頬を触る。こんなに滑らかな肌を俺は知らない。
愛おしさがこみ上げてきて、時間も忘れてこう太を眺める。
こう太を抱っこしているだけで、一時間二時間余裕で経ってしまう。
あぁ、この子時間泥棒だ。
望んだとおり、夢の中で赤ん坊のこう太に会えた。
そして、望んだ通り抱っこできて、この手で育てている。
単純に、赤ん坊の頃の可愛いこう太に会いたかっただけじゃない。
この子を十年もの長いあいだ、ほったらかしにしてしまった贖罪をしたかったんだ。
こんなにも小さく、ちょっと息を吹きかけただけでも消えてしまいそうなくらいか弱く、脆く、愛おしいこう太。
それに向き合おうとしないで、俺は自分だけを可哀想だと思っていた。
自分を愛してくれる存在を亡くしたというのは、この子も一緒だというのに。
現実ではこう太と一緒に、会えなかった十年を埋めよう。
そして、夢の中ではこう太と一緒に新しい十年を作ろう。
パティの分もこう太をちゃんと赤ん坊の頃から愛そう。
俺はこう太のベビーベットの上に飾られた、我来先生の書いてくれたこう太の命名の書を見上げた。
「こう太」っていう名前は、パティがつけた。
だから、この名前はパティの最初で最後のプレゼントだ。
文字を見ているだけで、楽しそうに笑うパティが思い浮かぶ。
「男の子だったら、こうた。女の子だったら、せりあ」
「いや、男の子はいいけど、せりあはどんな字書くの?カタカナ?」って、聞いたら『芹亜』と書いてくれた。
パティに似た金髪碧眼ならきっと可愛いけど、俺に似ちゃったらどうするの?と聞いても、芹亜は譲らなかった。
まぁ、いっか。八割型男の子だって言われているし。
「こうた、は漢字どうしよう」
光、功、幸、耕、晃、康、と俺がざっと思いつくのをあげていくとパティは難しい顔をした。
割と悪い意味は少ないので、余計に悩んでいるみたいだった。
「考助の字を入れるのも素敵だよね」
その時に、俺の使って欲しい漢字を提案するとパティはばっさり却下した。
ダラダラ俺が説明を入れたのが悪かったみたいで、
「会う人全部にその説明するの?漢字も書くの難しいし」
漢字は別に難しくないとは思うんだけど、会う人全部に、っていうのが胸に突き刺さったので俺は泣く泣く意見を撤回した。
「香るっていう字も可愛いけど、男の子だもんね。あ、だったらさ。こう太、なんてどうかな?」
平仮名いれるの?って尋ねるとパティは大きく頷いた。
平仮名で可愛いっていうのと、誰でも読めるし読み間違うこともない。語感の響きもおかしくないし、書きやすい。
「こう」の部分に漢字を当てはめてしまうと、その漢字に囚われる。だから、このままで良い。
パティはお腹を撫でながらそう説明すると、次の瞬間には『ねぇ、こうちゃん』と話しかけていた。
そんな顔でそう言われたら反論なんか―まぁ、賛成だからするつもりないけど―できるはずもなく。
俺は笑いながら「ママからいい名前もらったな、こう太」とお腹を撫でた。
「こう太」の由来について、こう太に説明したことはない。夢から覚めたら教えてあげようか。
その時、腕の中のこう太がもぞっと動いた。
それだけで頬が緩むのがわかる。
俺が入れたかった漢字は、俺の好きな四字熟語に入っている字だ。
『八紘一宇』
「全世界を一つの家にすること」という意味を、長いこと俺は良い意味で解釈していた。
だけど、師匠に「第二次世界大戦時に、日本が海外侵略を正当化する標語として用いたから、どちらかというと負のイメージが強いかもしれないよ」と言われて落ち込んだ覚えがある。
それを伏せてパティに提案し、
「世界を一つの家にするっていうことは、差別や偏見もない平等な世界にするってことなんだよ。争いもなく、皆がお互いを思いやれることなんだ。こう太にこの文字が入っているということで、世界のどこに行ってもこう太には帰る場所があるってことだし、こう太は誰とでも仲良くなれるから一人ぼっちじゃないんだよ。そもそも、この漢字の意味が宇宙を支える綱、大地のはてとかスケールが…」
と説明していたら、パティにダニを見るような目で「考助、うるさい」と止められた。
あんときはちょっと落ち込んだけど、後から華田のとこと名前の由来の話になったとき。
「垓、っていうのは世界の果てを意味していてな。兆より大きな数字である京の更に十億倍の数字なんだ。俺の京っていう名前を越えて更にスケールの大きな男になれという思いをだな…(略)」
という説明を聞いて「被るとこだった」と胸をなでおろした記憶がある。
「紘太」
俺はつけたかった名前を一度だけ呼んでみた。
響きなんて一緒だから結局は「こうた」って呼んだだけなんだけど。
こう太はちょっとだけ笑ってくれたような気がした。
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