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第二十九話
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それから一週間。
颯希は部活の為、学校に通い続けていた。
音楽室へと向かう途中、階段で伊織と会うことも珍しいことではなかった。
偶然出会って、朝の電車での出来事など、他愛のない話をした。
暗いことばかり想像していたことが嘘みたいに感じられ、心がだんだんと軽くなっていく。
階段の上り下りに緊張する、擽ったくて不思議な日々。
そして今日も階段を下る途中に、艶めく黒髪によく映える青緑色の瞳を持つ綺麗な男の子を見つけた。
袴の裾をたくし上げ、のんびりと階段を降りる伊織。
「お疲れさま。」
颯希が一声かけると、伊織は振り返り、優しく笑う。
「颯希も。おつかれ。」
伊織に歩調を合わせ、颯希ものんびりと階段を下る。
合唱部と弓道部は春休みではだいたい同じ時間に部活動を行う。
だからこそこうやって二人でいることが多いのだが、やはり慣れない。
口から紡がれるのは、何気ない日常の会話。
けれど、目の前の相手の表情がころころと変わる度、胸が熱くなる。
普段、無表情のイメージが強い伊織。
けれども、懐いた相手には喜怒哀楽をわかりやすく表現してみせる。
そして、颯希は伊織のいろいろな表情を知っている。
嬉しそうにふわりと優しく笑う姿。
頬を膨らませて怒る姿。
哀しそうに儚く笑う姿。
まるで子供のようにキラキラと瞳を輝かせて楽しそうな姿。
どの表情も大切で、どの表情も好き。
今、目の前で気軽に日常の会話をする伊織は気づかない。
伊織が表情を変える度、颯希が赤く色づいていく頬を隠すために、その右手で口元を隠していることに。
あっという間に階段を降り終え、伊織は更衣室へ、颯希は駅へと向かう。
伊織に別れ際に言われた「ばいばい。」は颯希にとって寂しく感じられた。
もっと一緒に居たい。
自分の欲に気づいて、颯希は自分を落ち着かせるために深呼吸した。
だんだんと伊織への執着が強くなっていることに気づいていた。
開けてはいけない、特別な箱。
それが軋む音がした時からわかっていた。
ただ、見て見ぬ振りを貫き通そうと、必死になっていた。
ただ軋んできただけ。
鍵が開きかけているわけでも、箱が開いたわけでもない。
けれど、抑えてきていたものは徐々に姿を現す。
そう、とても醜く、重い、気持ち。
小さい頃にかけた、特別な箱の頑丈な鍵。
どうか、壊れないでほしい。
その鍵が壊れた時、きっと自分は伊織に嫌われてしまう。
まだ見ぬこの先の自分の道に、小さな影が落ち始めた。
その影はいずれ、颯希が進むべき道を隠し、立ち止まらせる。
颯希の中で起こる、侵食。
どうか、進まないでほしい。
颯希は、自分のこの先に恐怖し、怯えている。
マフラーで隠れた颯希の口元。
そこでは血が滲むほどに強く、下唇を噛んでいた。
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