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第一話
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満月が明るく夜道を照らす。
蕎麦屋の帰り、田辺は、袂に腕を入れ、川のほとりをほろ酔い気分で歩いて行く。
「今日は月が綺麗だねぇ。」
鼻歌混じりでよろよろしていると、急に吐き気が催してきた。
いかんな……飲みすぎたか?
すぐ傍の柳の木に手を付き、しゃがみ込む。
暫く、げぇげぇしてみるが、吐き気はすれども出てくる様子がない。
「お侍さん……どうしなすった?」
男の声に、振り返りながら答える。
「いや、大したことはない……少々気分が……。」
町人風の男が、心配そうに腰をかがめて田辺を見ている。
少しくたびれた縞の小袖に、草履を素足で履き、陰のある横顔は、なかなかの男前だ。
女のように線の細い顔立ちに、下がった眉と形の良い唇。
その男は、崩れた髪が頬を撫でるのも気にせず、田辺に手ぬぐいを差し出す。
田辺はそれを手で制して断ると、立ち上がりかけてまたしゃがみ込む。
「だ、大丈夫かい?なんだったら、少し家で休んでいくかい?」
「いやいや、大丈夫。ちょっと酔っただけだから。」
こんなことで人様に迷惑など掛けられぬと、半ば強引に立ち上がり、よたよたと歩き始める。
「そうかい。なら……。」
男が帰りかけると、突然立ち上がったのがいけなかったのか、
田辺が道端で大っぴらに吐き出した。
「ほらほら、だから言わんこっちゃない……。」
男はまた手ぬぐいを差し出し、田辺の背中を撫でる。
今度は田辺もその手ぬぐいを受け取り、口の周りを拭いていく。
「す、すまぬ……。これは必ず……。」
「返すなんて言わなでくれよ?」
田辺は手ぬぐいを見て考える。
これは返していいものか……。
「そいつはあんたにやるから、思う存分吐き出して、すっきりしてけぇるんだな。」
男は幾分しゃっきりしてきた田辺の顔を見て、ふにゃりと笑う。
どきっ。
田辺の心拍数が上がる。
さっきまでの男前とはだいぶ違うその顔は、元服前の子供のようだ。
男は、じゃ、と言って立ち上がる。
「あ、名前は……。」
「おいら?」
男はにっこり笑って腕を組む。
田辺はゆっくりうなずく。
「善(ぜん)……。」
善はふにゃりと笑って聞き返す。
「あんたは?」
「私は田辺……信之介。」
「信之介さんかい。いい名だね?」
善は一度、月を仰いで踵を返す。
背中を丸め、ひょこひょこと帰っていくその後ろ姿を、田辺はぼんやりと見つめる。
時折、風が善の髪や着物を弄ぶ。
その後ろ姿に、行かないでと囁くように柳の枝がなびく。
「まるで画の中みたいだな……。」
田辺は小さな声でつぶやく。
月と風と柳の枝と……善。
「あ~、清(きよ)?」
薬問屋のれい子お嬢さんが、丁稚(でっち)の清に向かって、おいでおいでをする。
「へぇい、なんでしょう?」
清は腰を落としながら、お嬢さんについていく。
「お前、両国までお使いに出るんだって?」
「はい。大旦那様のお言いつけで……。」
「だったら、ちょいと十二間まで行って、暁の新作があるかどうか見てきておくれよ。」
「へぇい、かしこまりました……。
ですが、どうも私はあそこに寄るのが恥ずかしくって……。」
清は頭を掻いて、お嬢さんを見上げる。
「何が恥ずかしいんだい?」
「そりゃあ、恥ずかしいでしょ?私はこう見えて、まだまだ若造。」
「って、清。どう見ても、まだまだ若造だよ、あんたは。」
「はぁ。その若造が、春画……。」
お嬢さんが、慌てたように清の口を押える。
「しっ!声が大きい。」
「しかも、お嬢さんだって嫁入り前の小娘……。」
「小娘とはなんだい!いいからさっさと行っといで!
巷じゃ、みんな暁の新作はまだかいって、首を長くして待ってるんだ。
早くしないとなくなっちゃうかもしれないよ。」
「新作が出てるかどうかもわからないのに……。」
清がボソッとつぶやく。
それを聞き逃さないお嬢さんが、下目使いで清を見る。
「清?あんた、顔はいいけど、一言も二言も余計だね。」
「へぇい。顔だけじゃなく、頭も切れるって付け加えておくんなさい。」
「ほんとに口数の多い……。ほら、残りは駄賃にあげるから……。」
紙に包まれた小銭を渡すと、清の手にぎゅっと握りこませる。
「そんなに見たいですかねぇ?春画……。」
「だから、声が大きい!母様に聞かれたら、先に取られてしまうだろ?」
お嬢さんはこそこそと辺りを伺う。
「いいじゃないですか?先に見られたって減るもんじゃなし……。」
「ばかね。誰よりも先に見たいってのが人情じゃないか……。
本当に、清は女心がわからない……。」
お嬢さんは残念そうに清を見つめる。
「へぇい、なんせ私、まだまだ若造ですから……。」
「減らず口、叩いてないで、さっさと行っといで。」
お嬢さんは指で玄関を指し示す。
「わかりましたぁ。」
清はいそいそと玄関に向かって駆けていく。
「あ、知ってると思うけど、『東雲(しののめ)』って看板出てるから、
間違えないでおくれよ。」
「へぇい。」
清の背中が見えなくなると、お嬢さんは大きな溜め息をつく。
「はぁ~~。暁の新作……そろそろきっと出てるはず……。」
頬をさっと赤らめて、少女の顔になって部屋へ戻っていく。
その後ろ姿を、女将さんが、ん?と首を傾げて見止めると、玄関先に目を向けた。
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