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第2話
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兎に角、美味いコーヒーが飲みたかった。
五月も連休を過ぎれば日差しも強くなり、昼間に外を歩くと汗ばむことが多くなった。だが、気分は実に壮快だ。何しろ今日一日で二件も契約が取れたのだから。本当ならビールでも飲みたい気分だが、まだ勤務時間中なのでまずコーヒーで祝杯をあげておく。
担当地区内の駅前にそれほど大きくはないがモダンで気の利いたカフェがあって、そこが神崎優留(かんざき すぐる)の気に入りだった。 ここはマスターがコーヒーに拘っていて味は勿論、珍しい豆も仕入れてくるので、営業の合間に休憩したり資料を仕上げるためによく利用しているのだった。
店内は白と明るい木目を基調にした優しい色彩にシンプルで無機質なインテリアの、いかにも最近のカフェといった雰囲気だ。BGMはスローテンポなジャズが殆ど聞こえるかどうかという程度の抑えた音量で流れていて、コーヒーの味だけでなく会話や静寂を楽しみたい客の憩いの場にもなっている。
「いらっしゃい。神崎さん」
いつもはテーブルでタブレットやパソコンを触っている優留が、この日は上機嫌でカウンター席に座ったのを見て、店のマスターが声をかけてきた。三十代半ばくらいの男性で、少し古めかしい感じの黒縁眼鏡をかけている。
「何かいいことがあったんですか?」
客がカウンター席に座るということは、店の人間と会話をしたいという意思表示であることが多い。そして優留が他人の前で決してネガティブな話題を口にしないことをカフェのマスターは知っている。
「へへ…今日は立て続けに二台契約が取れちゃったんで」
「そりゃあ、すごいな。だって神崎さんが売ってるのは超高級外車だったでしょ」
優留は口元がにやけるのを抑えきれないといった様子で、まず出された水を一口飲んだ。
「まあ、この辺りは元々条件がいいですからね…でもこんなことは滅多にないです」
多少控えめな言い方をしているが、高級車の販売会社に入ってまだ三年経ったばかりの優留がこんな一等地の担当をしていることは破格の待遇と言っていい。というのも、入社した年こそ地方のかなり条件の悪い店舗に配属されたが、そこで二年勤務する間に本部も度肝を抜くような成績を上げたからだ。誰の目にも明らかな栄転で東京に戻ってきてからも、彼の快進撃は続いている。
マスターに薦められて優留がオーダーした東ティモール産のコーヒーは豆の煎りが浅く、マスター自ら「チェリー・アンバー」と名付ける透明感のある美しい色に目を奪われる。柔らかな湯気をたてて白いカップに注がれたコーヒーを口にふくんで味わい、飲み下すときに少し茶葉の香りを感じる。初夏の昼下がりにぴったりのアジアらしいエキゾチックなアロマが、大きな仕事をやりきった後の開放感を誘った。ほっと息をついて、美味い、と呟くとマスターも嬉しそうに微笑んだ。同僚と飲みに行って仕事の愚痴を聞くよりも、こうして一人カフェで静かに過ごす方が、ずっと豊かで幸せだと彼は思う。こうして仕事も順調で、仕事の合間や休日には自分の好きなように時間を過ごせることが。
そう、一人はいい。
劣悪な家族関係から抜け出してやっと得た安らぎを、他人に引っ掻き回されるのはご免だ。だから職場の女性達にどれだけ言い寄られても、とぼけて追い払ってしまうのだ。そしてこのまま年月が過ぎていったら、自分は一生一人のまま終わるのだろうか。だが、その方がましだと思う。もしも、一生の伴侶に選んだ女性があの女…自分の母親のようになったとしたら。
せっかくいい気分だったのに嫌なことを思い出してしまった優留は、僅かに眉を寄せてもう一度息をついた。あの女のことなど忘れているに限る…
心に溜まった澱みをコーヒーの香りで払おうと優留がカップを持ち、口元に運ぼうとしたその時、辺りをすっと風が通り抜けるのを感じた。
店の扉が開いて人が入って来たようだ。優留は、何となく扉の方向を振り返ったが、彼の視線はそのままになった。
店に入ってきたのは、優留と同年代と思われる若い男で、背丈は一七五センチ程度、優留より少し小柄に見えた。昼間のこの時間に薄いグレーのシャンブレーの半袖シャツにブルーデニムを合わせた服装や、梳いて軽くしているが長めの前髪を無造作に分けたラフな髪型から…察するところお堅いサラリーマンでないことだけは確かだ。
「いらっしゃい。松波さん」
マスターが名前を呼んで会釈した。ということは彼もこの店の常連なのだろう。
「いつものですか?」
「うん…それとも何か今…セール中のとかってありますか」
明るくてよく通るテノールの声でおっとり喋る。どことなく品が良くて、いかにもこの界隈の住人らしく見えるが…。
優留はこれ以上じろじろ見るわけにもいかず、視線を逸らした。
「煎りは浅めがお好きでしたよね。だったら今週はコロンビアの浅煎りが一割引だから、いつものソフトブレンドとお値段殆ど変わらないです」
「ほんと?じゃあそれを百グラム挽いてもらえますか」
この男も浅煎り派らしい。マスターが注文を受けた豆を機械にかけて粉砕する間、出された水を飲みながらカウンターの末席に腰掛けて待っているのを、優留は横目でつぶさに観察した。職業柄身に付いた癖もあるものの、何故この男にこれほど興味を持つのか彼自身もわからない。
考えられる理由は一つだけある。…彼の美貌だ。
同性の自分でも思わず振り返ってしまうような。やや色白で、カウンターに向けられた横顔の輪郭は完璧に近かった。そしてシャツの間から覗くほっそりして少し骨ばった首筋や手首を見ていると、優留の中のどこかの感覚がざわついて、いよいよ不可解に思うのだった。
挽いた豆をアルミパック詰めにしたものをマスターから受け取り、代金を払うと、享は一言礼を言って店を出て行った。
「…松波さんのこと、観察してらしたでしょう」
マスターに鋭く指摘されて優留は苦笑いした。
「いや、こんな時間に仕事してる様子もないから、ぼんぼんなのかなと」
「早速売り込みの算段ですか。抜け目ないなあ…でも彼はどうかな。なかなか仕事に就けなくて苦労してらしたようだから」
「じゃあ今も無職ってことですか?」
「最近はご自宅でピアノを教えてらっしゃるそうですよ。そこ、入り口の右側のボード。頼まれて生徒募集のチラシを貼らせてもらってます。常連さんですから」
優留は席を立ってボードの前に行くと、チラシの内容を読み上げた。
「松波ピアノ教室。住所は…うわ、いい所だな。このすぐ近くじゃないですか。けど、募集時間がヘンですね。午前中と夜間だけ?」
「ああ、夕方の時間帯はもう子供のレッスンでいっぱいだそうで」
「へえ〜。確かに、お母さん世代に好かれそうな感じですよね。繁盛してんだ。だったら車買ってくれないかなあ」
軽口を交えつつ、カフェのマスターから優留はあの男の情報を巧みに聞き出した。
まず、営業目的では近づけないことがわかった。松波の生まれは悪くないし、彼の親はどこかの企業の海外子会社の社長をしているらしいが、現在一人で暮らしている本人には大した収入はなさそうだ。ピアノ教師でも音大の受験に影響力を持つような人物でもなければ、生徒一人当たりからはそれほど高い月謝は貰えないという。
オフィスに戻って残処理をする前に、チラシを見て覚えた松波の自宅前まで行ってみた。まるでストーカーみたいじゃないか、と自分自身に呆れつつ、古くて小さな純日本家屋の外観をざっと見回した。一家族がやっと暮らせる程度の小さな建屋で築年数もありそうだが、あの男が一人で静かに暮らしている様子が何となく想像できる。
この玄関の戸を開けて、彼と顔を合わせて話をしてみたい気がする。今まで他人に興味を持ったことのない優留は、何故そんな風に思うのかさっぱり理由がわからない。
だからこそ、確かめてみたかった。
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