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「……それで、何もやることないからずっと筋トレしてたの?」
今日もグレーのスーツを身にまとっていた志野は、肩で息をしながら床に伸びていた萩谷を面白そうに見下ろしていた。
萩谷はこくこくと頷きながらなんとか体を起こす。チェックマークのついた紙を掴んで押し付けると、志野は我慢できなくなったように噴き出した。
「むきむきになってもらっても構わないけどさ、そんな死にそうになるまでやらなくったっていいんじゃないかな? 昼に暇なのは分かったから、なにか暇つぶしのものも用意しておくよ」
「一緒に食べようね」と手に下げていたビニール袋を見せながら、志野はキッチンに向かった。萩谷はずるずると這うようにソファーまで移動すると、ぼすんと座り込んでいた。
体がだるくてもう動きたくない。天井を仰いで深く息を吐く。正直このタイミングで志野が帰ってきてくれてありがたかった。
あれからやることがないと気づいた萩谷は、何度か紙に書かれているメニューを繰り返し、ずっと無心でペダルを漕いでいたのだが、こんなにも夢中になってしまうとは思わなかった。気づけば目の前が霞んでいたので、さすがに休もうと足を下ろすとまともに立てずにその場に座り込んでしまったのだ。体が限界だと悲鳴をあげていたのだが、それにも気づかなかったらしい。
しかし、これはアルコールに頼るよりもよほどマシな気晴らしの仕方だ。長距離走をやっていたことも関係しているのだろうか、あの頃も限界が来るまで気づかない時が時折あった。走りきった達成感と息苦しさをぼんやりと思い出してくる。自分はとにかく自分自身をいじめ抜くのが好きなようだ、萩谷はなんとも言えない気持ちで閉口した。
しばらくするとキッチンから匂いが漂ってきた。何かが焼けるじゅう、という音。首だけを回してキッチンを眺めると、スーツの上を脱いだ志野がフライパンを握っていた。
「これも洗ってくれたの? 英治さん気が利くね」
そう言えば放置されていたフライパンを使った皿と一緒に洗っておいたことを思い出した。素直に頷くと、志野は再び噴き出して笑う。
「黙ってても家事やってくれるなんて、英治さん最高のお嫁さんになれるよ。……もう結婚してるんだろうけど」
不意に志野の声が途切れる。家族に関する話題を萩谷が露骨に嫌がったのが分かったようで、志野はすぐにその話を終えた。
きっと志野はまだ知らない。萩谷が誰を殺したと思い込んでいたのか、どうしてこんなことになってしまったのか。志野はまだ妻と娘が生きていると思っているのだろうか。あの男は自分の何を知っているのだろうか。
志野が黙ったすきに萩谷は志野の方に顔を向けたまま、声をかけようと口を開けた。名前のことがいつまでも気にかかっていた。
「……なぁ」
「なに?」
喉から出たのはかすれた声だったにも関わらず、志野はすぐに返事を返す。びくりと萩谷が驚く様子に、志野はけらけらと笑った。
「自分から話しかけておいてそんなにびっくりしないでよ。俺は返事しただけでしょ」
「……よく聞こえたな」
「意外とこっちにも聞こえるよ。それに初めて英治さんが話しかけてくれたから嬉しいよ」
嬉しい、と言って笑う志野の表情は嘘には見えず、なぜそんなことを言うのか、萩谷は判断しかねないまま質問を続けることにした。
「……お前の、名前」
「……あぁ、うん」
「志野、でいいのか」
忘れていた、そんな呟きが聞こえた気がした。志野は萩谷の口から出た自分の名前に一瞬驚いた様子だったが、今日送られてきた荷物を見て勘づいたようだった。志野は笑って頷いた。
「うん、そうだよ。志野 一輝(しの いつき)が俺の名前」
志野 一輝。やはりそれがこの男の名前だったようだ。「名乗り忘れててごめんね」と軽い調子で志野は言う。それだけでどれほどこちらの恐怖が煽られただろうか、それをこの男は知らないのだろう。萩谷はなんの悪気もないだろう志野の顔を眺めてため息をついた。
しかし、これでやっと相手の情報も手に入った。他にも根掘り葉掘り聞きたいところだったが、うまく言葉が出てこない。人の個人情報を引き出すのは慣れていない。それに先に動き出したのは志野で、皿と茶碗を持って萩谷に近づいてくる。
白いご飯に焼き鮭、ドレッシングのかかったサラダがテーブルに並べられる。なんとも庶民的だと品々を眺めながら萩谷はソファーの背もたれから体を起こし、軽く背筋を伸ばした。今日は志野も萩谷と同じような食事をとるらしく、萩谷に向かい合うように床に座った志野ははしを手に取って食事を始めた。
「……」
「不味いな」
志野にならって食事を始めようと焼き鮭を一口食べた萩谷は思わず表情を歪めた。志野も不思議そうに一言呟いてすぐに茶碗に腕を伸ばす。
焼き鮭は塩辛く、生焼けだった。すぐ口に入れたご飯も固く歯ごたえのあるものだ。自分は味覚さえ狂ってしまったのか、恐る恐る志野を盗み見ると、首をかしげながらも食事に手は出していない。どうやら本当にこれらは不味いらしかった。
「友だちに聞いたとおりにやったんだけど、上手くいかなかったみたい。ごめんすぐ何か買ってくるよ」
「……いい、もったいない」
皿を持って立ち上がった志野の腕を慌てて掴むと、彼は驚いたように萩谷を見つめると、ふっと柔らかく微笑んだ。
「俺の料理食べてくれるの? 優しいね、英治さんは」
再び座って皿を置き、志野は食事を再開した。
優しい、と言うものではない。ただ条件反射のように留めてしまった自分に後悔しながら、萩谷もはしを手に取った。
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