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海蛍
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「あ、あぅうっ……」
車椅子の上で突然、引きつった言葉にもならない声を上げた老人に気付いた瀧田は看護師との会話を一方的に打ち切ると慌てて、その老人の元へと駆け寄った。
普段は静かなこの老人のあまりの狼狽ぶりに、廊下にいた他の者たちも思わず振り返る。
「どうしたのかな、橋本さん?」
瀧田は膝を折り車椅子の橋本に視線を合わせると静かに微笑む。
「んぅぁ、あ、あああっ」
高齢の上、様々な病を繰り返すうち橋本は会話をする能力が失われていた。
言葉が無くとも穏やかに過ごしていた橋本の不自由であるはずの指先が小刻みに震える。
全身全霊で必死に何かを伝えようとする様に、瀧田は橋本が指すその先を見る。
「あ……」
廊下の隅に転がった古い万年筆に気付くと、瀧田はそれを大切に拾い上げる。
「あらら、橋本さんの宝物。落としちゃったのね」
リハビリでも満足に上がらないはずの手が、震えながら瀧田の手へ向く。
そして、それにやっとの思いで触れた。
「ありがとうございます」
看護師は麻酔科女医の瀧田に頭を下げる。
橋本は受け取った万年筆を震える両手で拝むように受け取った。
橋本の口からかすれた声がこぼれ出る。
何を言っているかは聞き取れないが、それが『ありがとう』の意味であることは理解できた。
深い皺の中に埋もれた橋本の目から涙が滲む。
「さぁ、宝物を手にリハビリ頑張って来ましょう」
もはやその用途を果たせはしないであろう古びた万年筆を手に、嬉しそうに頬を涙で光らせたまま橋本の乗った車椅子は再び静かに押され進み始めた。
好々爺として入院先であるこの医大で誰からも笑顔で迎えられる高齢の橋本薫。
しかし、幾度かの治療に医師として立ち会った瀧田は知っていた。
その身体には、命さえ落としかねないような傷が複数あることを。
そして、橋本がその傷の数だけ地獄を見てきたであろうことも。
小春日和の穏やかな日差しの中、鴨川は水面を光らせ医大を仰ぎ見るように流れゆく。
あの日から70年もの月日が経っていた。
「このヨーチン野郎が!」
罵倒と嘲笑の中、幾度も幾度も殴られる。数発目からは顔では目立つからと、腹や背を執拗に
狙われ殴られ続けた。
痛みで気が遠くなる中、倒れるわけにはいかない。
倒れた瞬間に制裁は更に増すのだから。
「ヨーチン野郎のお前と俺たちが同じだけ飯を食うなんておかしいと思わないのか?」
殴られながら言われる言葉はいつでも同じだった。腹が立たないといえば嘘になる。
しかし、自分の唯一の居場所であるこの場は階級がすべて。
僅か半日でも一食でも飯を先に食った者が先輩となり上官となる。
口答えなど許されるはずもない。
そう、世の中はいつでも理不尽だった。
田舎の農村の貧乏小作人の子として生まれた薫。
4歳年上の姉、敏子は聡明で優しく美しい人だった。
小作人の息子には分不相応だと反対された小学校へは、姉と共に睡眠時間を削ってまで家業を
手伝うことを条件に、週に何度か通えることが許された。
薫の成績は優秀で、町の中学への進学をも勧められたが、その日暮らし同然の小作人の息子には
夢というにも程遠いものだった。
「薫は将来、何になりたいの?」
畑からの帰り道、姉に問われた薫は俯いたまま立ち止まる。
「小作人の子は小作の後を継ぐしかないさ」
問いかけた姉の目を見ることも出来ぬまま、薫は自らに言い聞かせるかのように答えた。
「小作人だって夢見るくらいいいじゃない」
荒れた血の滲んだ手で、敏子は薫の頬に触れその顔を自分に向ける。
「医者になりたいんだ。
金が無くても、小作人でも診てくれる、そんな医者になりたい」
人目を忍ぶように、その言葉が罪深いものであるかのように声を潜め答える薫に敏子は微笑んだ。
「薫は頭がいいからなれるよ」
「中学にも進学できないのに、医者になんてなれるはずないよ」
朱に染まった空の下、涙をこらえ駆けだした薫の後姿を敏子はただ黙って見送った。
それからひと月後、学校から戻った薫は娘らしい花柄の着物を来た敏子の姿を生まれて初めて見た。
自分の姉がこんなにも美しかったことに言葉を失いながらも眩しそうに見つめる薫。
「どうだ、お前の姉ちゃんはべっぴんさんだろ?
街で一、二を争うぐれぇのいい女郎にきっとなれるさ」
背後から聴こえた悍ましい言葉に、冷水を浴びせられたかのように総毛立つ薫。
「姉ちゃんは女郎になんてならない、なるものかっ!」
そう叫ぶと同時に、日に焼けた大きな手が薫の頬を思い切り打ち付ける。
小柄な薫はいともたやすく土間へ弾き飛ばされた。
「俺たちはどこかいい家の女中奉公の口でもあればと思っていたのが、敏子が自分から女郎屋に
行きたいと言ったんだよ。
お前、小作の倅の分際で、中学に行きたいなんて言ったらしいな。
敏子は身を売ってでもお前の学費を稼ぎたいと言ったんだ。
いいか、すべてを決めたのは敏子本人だ。
ロクな稼ぎも出来ねぇ奴が、偉そうな口を叩くんじゃねぇ!!」
女衒から受け取った金を手に、薫を殴り声を張り上げたのは父だった。
「薫、姉ちゃん頑張るからあんたも頑張って。大丈夫。
寝るところも食べることも間違いないって言ってくれるし、薫の夢が叶うことが私の夢でもあるから……」
笑っている敏子の目から涙があふれる。
「やだ、やだっ!姉ちゃん一人を助けられずに、どうして医者になって他人を助けることが出来るんだよ!
俺、夢なんていらない。今すぐ捨てる。だから姉ちゃん、お願いだからここにいて……」
敏子の足にしがみ付く薫を引き離そうと、父が女衒が薫を殴り蹴る。痛くても苦しくても敏子の足を
薫は決して離そうとはしなかった。
「このクソガキがぁ!」
次第に痛みが遠のいていく。
心のどこかで『これが死なのか』と思いが過る。
「かおる、かおるぅ!!」
悲しみに満ちた敏子の叫び声を聴きながら、薫の記憶はそこで途絶えた。
翌朝、目覚めた時には既に敏子は遠い街へと旅立っていた。
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